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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第3部 韓国編 <5> 妻への秘密 離婚恐れ体験隠す

告白、悩み分かち合う

 馬山市の申相甲さん(62)が、隣に座る妻のハイ斗南さん(58)を見やる。「離婚されるかもしれないと思うと、言えなかった」。妻は「今考えてみたら、だまされて結婚したようなものよ」と冗談交じりに切り返す。

 申さんは五歳で広島で原爆に遭った。三十歳のお見合いの席で、その事実は伏せていた。「被爆者への結婚差別を恐れた。言い出すのには相当の勇気がないと…」

体重は40キロ超えず

 広島に生まれた。職を求め祖国を離れた両親と、打越町(西区)で暮らしていた。井戸の前で光線を感じ、しばらく記憶がない。姉二人は亡くなり、残った家族四人で韓国に戻ったという。

 日本語しか話せなかった。「日本の回し者」といじめられ、学校に行くのがつらかった。

 体の弱さも心配だった。やけどのあとはかゆくてたまらない。消化が悪く、度々腹を下した。父も弟もがっちりとした体格なのに、いくら食べても四十キロを超えなかった。歯は次々に抜け、三十歳を待たずして総入れ歯になった。

 被爆したことは医者にも言い出せなかった。

 「原爆投下が日本からの独立を早めた」。韓国ではしばしばそう言われる。広島などに比べて被爆者が少ない分、「子どもに遺伝する」などと勝手な憶測が独り歩きした時期もあった。被爆体験を隠す人が多かった。

 結婚後、申さんは時計の修理工として働き、四人の子どもを育てた。依然、体調は思わしくなかった。下痢、消化不良、低血圧…。四十歳のころが最悪の状態だった。

 実は、妻ハイさんは結婚の数年後、義父から「広島で原爆に遭った」と聞いたことがある。だが、後障害も知らされていないため、深くは考えてこなかった。原因不明のまま悪くなるばかりの夫を見るうち、「広島」が気になり始めた。

4月に手帳を申請

 ある日。「広島にいたと聞いたことがあるけど」と切り出した。申さんは「もうこれ以上隠せない」と思い告白した。

 「病院に行っても原因は分からないし、被爆の影響だと思う」

 妻の目から涙がこぼれた。感情が抑え切れなかった。

 「なんで早く話してくれなかったの」

 今年四月。数年前に知った被爆者健康手帳の交付を広島市に申請した。最初は気乗りしなかったが、身体を気遣う妻が強く勧めた。二人の証人も見つかっている。手帳が出れば、日本で治療の道も開ける。「日本には原爆症の専門医がいる。精密検査を受けてみたい」

 体調は今も一進一退が続き、気分は晴れない。調子が悪くなると原爆が頭に浮かぶ。他国の核開発の話を聞いても、ふさいでしまう。だれにも相談できず、悶々(もんもん)とした日々を思い出す。

 「戦争と原爆で人生は変わった。それが自分の運命だと思って慰めるんです」。口元を引き締め、自分に言い聞かせている。

(2002年7月26日朝刊掲載)

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