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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第3部 韓国編 <6> 日本人妻 対日感情 思い複雑

夫先立ち一人子育て

 日本人妻であり、在外被爆者でもある。厳しい対日感情がある韓国で生き抜くのは、「重荷」を背負うことでもあった。

 久保ミサエさん(80)。田園風景が広がる慶尚南道陝川郡で、静かに暮らしている。

 鹿児島県に生まれ、何不自由なく育った、という。広島県内に住んでいた姉の紹介で、広島市に移り、助産院で働いた。

結婚…出産…ピカ

 運命との出会いは一九三八年だった。夜道で男たちにからまれた時、ある男が助けてくれた。西村松男と名乗った。すらすら日本語を話した。朝鮮半島の出身だった。二人は恋に落ち、翌年長女が生まれた。

 鹿児島の両親に許しを求めると、「親子の縁を切る」と勘当を突きつけられた。理解が得られないまま、婚姻、出生届を出した。続いて長男が生まれた。福島町(西区)に暮らし、そこで、ピカに遭った。

 家族四人は無事だったが、住んでいた長屋は全壊した。朝鮮人は迫害される、と聞いた。「一緒に古里へ帰りたい」と、夫は言い出した。見ず知らずの国に行きたくはなかったが、夫に反対はできなかった。陝川郡に渡った。

 ハングルは全く分からなかった。小屋を建て、荒れ地を耕した。食べ物は足りなかった。

 偏見を恐れ、被爆の事実は隠した。韓国を植民地支配した日本人としての複雑な思いもあった。夫の愛情と、五人に増えた子の成長を頼りに生きた。

 が、夫には病魔が忍び寄っていた。帰国して五年たったころから、胃腸の痛みと消化不良が続いた。家族のため、夫は鎮痛剤を飲み、建設現場で働いた。そして六九年、夫はあっけなく息を引き取った。

 「前だけを見て生きよう」。悲しんではいられなかった。畑仕事の傍ら、広島で経験した助産婦としても働いた。いつしか、ハングルの方が日本語より楽になった。五人の子は中学や高校を出て巣立っていった。

 万事控え目の久保さんが、日本人であることにこだわったことが一度ある。創氏改名した名前を韓国式に戻す韓国政府の政策を受け、村役場が「韓国名に直せ」と求めてきた。しかし、かたくなとして譲らなかった。

 孝行できなかった両親への償いのつもりだった。

昨夏に手帳を取得

 「日本で治療を受けてみたい」。そんなことを言い出したのは五年前ごろからだ。老い、望郷の念がわいた。昨夏、長女夫婦と広島市を訪れ、被爆者健康手帳を取った。

 今は、亡くなった長男の妻と二人で暮らす。腰が悪く、昼間はテレビを見て留守番する。少し痴呆の症状も出始めた。

 被爆した日本人妻の記録を残そうと、今春、長女の夫柳永秀さん(69)が体験を聞き取り、自分史をまとめてくれた。

 「失敗した生涯」。A4判十七枚の題名は、そう書かれていた。

(2002年7月27日朝刊掲載)

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