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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第3部 韓国編 <7> 離散家族 再会の席に通訳必要

釜山と広島、国境実感

 韓国の海の玄関口、釜山市に暮らす河壬植さん(69)は、六人きょうだいが集まるたび、通訳に忙しい。日本語とハングルが飛び交う。「わしがおらんかったら、チンプンカンプンになるんよ」。すらすら日本語で語る。

母は悔やみ続けた

 広島市天満町(西区)の祖母の家にいて被爆した。三男は父とともに行方知れずのまま。生き残った六人のうち、四男の河さんと末弟は母とともに韓国に引き揚げ、四人は広島にとどまった。

 日韓で離れ離れの歳月を経て、互いはそれぞれの言葉だけを話すようになった。唯一、当時十四歳だった河さんは日本語を忘れず、ハングルも覚えた。法事や旅行で家族が再会すると、通訳役が回ってくる。

 末弟を少し気の毒に思う。四歳で韓国に引き揚げたから日本語は全く分からない。兄や姉には会いたがるが、広島に行くと「言葉が分からないし、面白くない」と帰りたがる。

 「まさかこんなことになると分かっていたら、韓国には帰ってこなかったのに…」。十一年前に亡くなった母は、口癖のように繰り返していた。

待っていた生活苦

 被爆後も日本に住み続けるつもりだった。しかし、「韓国人は日本から追い出される」といううわさを聞き、母と長男が話し合った。

 「全員で帰っても家はないし、往生する。私が先に帰り、きっと呼び寄せるから」。母は河さんと末弟を連れて古里の晋州市へ。しかし、当てにしていた田畑は親類が使っていて、返してもらえなかった。

 しばらく日本とは国交がなく、生活は苦しい。子どもたちを呼び寄せるのはかなわなかった。「韓国に来ても苦労するのは目に見えている。日本にいた方がいい」。家族が一つの国で暮らすことはできなくなった。

 「いつも兄さんや妹に会いたいと思っていた」と河さん。再会を果たしたのは二十年後だった。釜山で日韓を往復する貿易船の船員になり、広島の宇品(南区)に寄港した際、長兄に会うことができた。

 数年後、兄たちは、母とともに広島に招いてくれた。涙ながらに再会を喜んだ。母の顔を見た妹は「なんで私を置いていったの」と抱き合い、泣きじゃくった。

弟妹には会えるが

 一九八九年、兄の勧めで被爆者健康手帳を取った。手帳があれば、日本で無料の治療が受けられ、健康管理手当も支給される。その後、狭心症を患い、毎年のように渡日し、検査や治療を受ける。弟妹の家に泊まれるので気軽に行ける。

 しかし、行き来するたび、国境の壁を感じずにはいられない。日本に暮らすきょうだいは毎月手当をもらえる。自分や弟は韓国に戻った途端、支給は打ち切られる。

 「同じ場所で、同じ原爆を受けたんじゃから、日本に残った人でも、帰った人でも、同じように扱わんにゃいけんよねえ」。家族がそろった記念写真を見ながら、河さんは広島弁でつぶやいた。

(2002年7月28日朝刊掲載)

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