在外被爆者 願いは海を超えて 第3部 韓国編 <8> 軍人として 孤児 糧求め入隊
02年7月29日
退いた後は反核貫く
「戦争はこりごりだったが、食べていくには仕方がなかった。生きるため必死だったんです」。韓国で軍人の道を選んだ釜山市の車貞述さん(72)が、訴えるような口調で話し始めた。
きょうだいで帰国
広島に投下された原爆で、建物疎開に出掛けていた父と長兄、南観音町(西区)の自宅で家の下敷きになった母の三人を失い、孤児になった。残されたきょうだい六人で韓国に帰った。父が残した財産は数年でなくなり、兄の家に身を寄せた。
「金がなく、食べ物のことでけんかばかり。食いぶちを減らすしかなかった」。兄たちに黙って韓国海軍に入った。
朝鮮戦争が勃発した。廃船寸前の軍艦に乗って参戦した。幸い、スパイ船を攻撃した程度で本格的な交戦にはかかわらずに済んだ。
米マッカーサー元帥が「あらゆる必要な措置を取る」と発言したのを聞いた。「もう一度、原爆を使うつもりなのか」。たった一発の原爆で、広島の街が吹き飛んだことを同僚に話したが、反応は鈍かった。「絶対に使うな」と願いつつ、軍隊にいることに複雑な思いはあった。
給料多い米海軍へ
三十一歳で結婚した。当時の韓国では晩婚だった。四人の子どもができ、食費や学費がかさんだ。米海軍の軍属になると、給料が多いと聞いた。入隊することにした。ベトナム戦争の最中だった。
戦車などを運ぶ輸送艦に乗り、日本の基地とベトナムを往復した。危険手当などで給料は韓国軍よりはるかに多かった。七三年まで七年間働き、除隊した。友人の建築会社を手伝ったりし、生活に余裕も生まれた。
八〇年ごろ、韓国原爆被害者協会の存在を知った。釜山支部長に話を聞き、韓国の被爆者と違って、日本の被爆者は手厚い援護を受けていることを知った。「被爆者の権利を訴えなくては」と思い、すぐに入会した。
二世の会テコ入れ
八九年、支部長に選ばれた。活動資金は乏しく、自宅の一室を事務所にした。運営にポケットマネーを使った。月例会に数十人の被爆者が集まり、それぞれの近況を話し合ってきた。
「あの体験を次世代に伝えなければ」。運動にかかわるうち、被爆体験を継承する大切さを感じた。九八年と二〇〇一年の二回、釜山駅前の広場で原爆の写真展を開き、デモ行進をした。停滞していた被爆二世の会にテコ入れした。
焼け野原で見た悲惨な光景に後押しされる。
あの日の広島は、大勢の死傷者がいた。外見上は、けがのなかった人も、髪の毛が抜け、歯ぐきから出血し、そして死んだ。放射線の恐ろしさは身にしみている。
しかし、こうした事実は韓国では十分に知られていない、と思う。
「原爆は他の爆弾と違う。子や孫を同じ目に遭わせるわけにはいかない。被爆者なら誰でも、そう思う」
事務所代わりの自室に掲げた額に、「核禁」と書かれている。
(2002年7月29日朝刊掲載)