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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第3部 韓国編 <9> 独りぼっち 「死」を考える日々

術後20年、また足痛む

 ソウルから北へ、バスで二時間余りの江原道華川郡。一人で土産物店を営む李順玉さん(70)の目から突然、涙がこぼれ出た。「母がおらないから、両親がおらないから、不幸な生活だけしてから」。すすり泣きがしばらく止まらない。「原爆の時から不幸続きが、今の今まで」

唯一の肉親も自殺

 十四歳で原爆孤児。皆実町(南区)に住み、母と妹と一緒に倒壊した家の下敷きになり、母は目前で亡くなった。父は仕事を探しに出て被爆したらしい。遺骨は見つからない。

 妹とともに、叔父一家と帰国した。ソウルに着くと、子守りの奉公に出された。下敷きになったときに強打した右足が痛む。「死ねばよかったのに」。布団に入ると、涙が出た。

 十九歳の時、股(こ)関節の痛みが増した。医者は「ほっておくと不自由になる」と言ったが、治療費はない。うずき、高熱が続いた。数年後、股関節は冷たい石のように「く」の字型に固まった。

 二十一歳で結婚したが、子どもができなかった。八カ月で捨てられた。「もう生きたくない」。睡眠薬を飲んだが、目がさめると病院にいた。織物工場で働く妹が駆け付け、「私が働いてあげる」と慰めてくれた。

 その妹にも悲劇が襲う。結婚後、二度妊娠したが流産が続き、離婚させられた。「幸せそうな人を見ると悲しくたまりません」と遺書を残し、唯一の肉親はガス自殺でこの世を去った。

 天涯孤独。足の痛みは続く。家政婦の仕事を見つけても、一週間で熱が出て続かない。再び、自殺を図った。が、またも気付くと病院にいた。

 入院費の支払いに困っていると、同室の五十歳すぎの男性が払ってくれた。「一緒に暮らそうか」。行く当ては他になく、ついて行った。夫は酒を飲んでは声を荒げ、暴力をふるった。出て行こうにも帰る場所はなかった。

土産物店切り盛り

 十数年後、夫は亡くなった。その後、アパートが再開発で取り壊され、今度は、住む場所がなくなった。隣の男性が相談に乗ってくれた。古里の江原道に来るように誘われ、応じた。

 身寄りがなく、転々とする人生。「李さんを援助しよう」―。日本人の有志が支援運動を進めてくれた。広島に治療に招かれた。一九八一年、日韓両政府の渡日治療で来日し、人工骨の移植手術を受けた。痛みが取れ、体が楽になった。

 だが、移植から二十年が過ぎ、痛みが再発し始めている。近くのバス停までも休み休みでないと行けない。手術をする気はもうない。夫とは折り合いが悪く、別居している。年金はなく、働くしかない。国道沿いに開いた土産物店を切り盛りする。

 最近、日本の支援者に「私のことはもう忘れてください」と手紙を送った。「昔のことは忘れようとしてるんです。苦しいから。一日でも早く死ぬことが私の幸福」。涙を浮かべてつぶやいた。

(2002年7月30日朝刊掲載)

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