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連載・特集

在外被爆者 願いは海を超えて 第3部 韓国編 <10> 無念の叫び 協会結成に全精力

額じゃない、補償ぜひ

 高血圧なのに、語り出したら顔を真っ赤にして止まらなくなる。ソウル市に暮らす元韓国原爆被害者協会副会長の徐錫佑さん(87)。韓国の被爆者運動を知り尽くす数少ない一人だ。

 協会の原点を思い起こすと、一瞬、口元を引き締めた。「韓国では原爆への関心が薄く、運が悪かった、とあきらめる人が多かった。私は、石にかじりついてでも補償を、と思った」

 一九六四年の暮れ。ある喫茶店。別のテーブルから「被爆者の協会をつくりたい」という会話が耳に入った。「私も広島で被爆したんです」。この男性に名乗り出ると、被爆者の組織化を目指しているという。すぐ運動に加わった。

出資者を探し回る

 事務所開設のため、出資者を探して回った。「日本から補償金が出たら返済する」と説明し、投資家を募った。資金が集まり、六七年、韓国原爆被害者援護協会を立ち上げた。

 被爆者のデータはなかった。新聞広告で連絡を呼び掛け、家庭訪問しては「補償金をもらうから」と入会を訴えた。当時五十代半ば。勤めていた市役所を辞め、仲間と朝から夕方まで歩き回った。差別を恐れて入会しない人もいたが、二千人を確認できた。

 が、甘くはなかった。民間の寄付がたまにあっても、日本政府からの援助は来ない。事務所の維持費に資金を費やすばかり。出資者に返済もできなかった。

 「会員が増えれば援助は来るはず」。自腹で被爆者訪問を続けた。子どもを大学に行かせる余裕はなかった。妻はあきれたように「金にもならないことを何でするのか」と責めた。

2年で基金が枯渇

 運動が実り、日本政府は九一、九三年に計四十億円を拠出した。被爆者に医療費や手当が支給されるようになった。それでも、手厚い援護が受けられる日本との溝は埋まらない。拠出金で設けた基金は二年後に枯渇する。協会は日本に追加支援を求めているが、明確な回答は出ていない。

 「補償金は少なくてもいい。それは将来の日本のためだと言いたい。韓国と日本は近くて兄弟のような国。親しくならないといけない」。口ぶりはさらに熱を帯びる。

 自国政府への思いも複雑だ。八〇年、日韓共同で始めた渡日治療は、六年後に韓国からの「自国で対応する」との通告で中止された。日本が四十億円を出した時、当時の盧泰愚大統領は「同額を出す用意がある」と言ったのだが実現していない。

 広島市の広瀬元町(中区)の自宅にいた妻と三人の子のうち、幼い娘二人が炎に包まれた。大州(南区)の自動車修理工場で働いていた自分は、車の下にもぐっていて爆風をやりすごした。

 協会設立から三十五年。副会長を五年前に退いたが、家族を奪われたあの日の記憶は癒やされない。(荒木紀貴)=第3部おわり

(2002年7月31日朝刊掲載)

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