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連載・特集

援護に国境の壁 在外被爆者 願いは海を超えて

 朝鮮半島と北米、南米を中心に世界各国で暮らす在外被爆者は、日本に住む被爆者と同様の支援は受けられない。医療費や各種手当の支給を定めた被爆者援護法は、日本国内に限って適用されるためだ。在外被爆者からの相次ぐ提訴で、大阪と長崎の地裁で昨年、援護法適用を認める判決が続いた。国は控訴する一方、昨年末に新たな支援策を打ち出したものの、援護法の枠内にとどまり、溝は埋まらない。法廷で争う二人の被爆者は「日本国内と同等の援護を、住み慣れた地で受けたい」とひたすら願う。(荒木紀貴・森田裕美)

主な国の在外被爆者と支援策

(人数は厚生労働省が現地団体から聞き取りした。米国は1999年、カナダは95年、その他の国は2000年現在のデータ)

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮) 928人
 2001年に日本政府の代表団が実態調査

韓国 2204人
 渡日治療(1981年―86年)
 医療費として4200万円(89、90年)
 医療基金として40億円(91、93年)
 (いずれも主体は日本政府)

<北米>
カナダ   23人
米国  1076人
 健康診断、渡日治療(77年より隔年実施)
 広島県医師会、広島県、市、国など主体

<南米>
ブラジル   153人
ペルー      3人
ボリビア     7人
パラグアイ    4人
アルゼンチン  13人
 健康診断、渡日治療(85、86年続けた後、隔年実施)
 広島県、長崎県、国が主体

世界各地に5000人 現地の状況

 世界各地で暮らす被爆者は現在、約五千人とみられている。移民や植民地支配など複雑な経緯がそれぞれの在外被爆者の半生を左右してきた。

 うち、朝鮮半島、北米、南米の九カ国には合わせて約四千四百人。日本政府が現地の被爆者団体の聞き取りなどで確認した。国交のない朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を除き、国や広島、長崎両県市が個別に支援策を実施してきた。

 千人を超える被爆者がいる北米では一九七七年、健康診断がスタート。広島県医師会、広島市、国などが医師団を派遣し、初年度は百六人が受診した。被爆者を日本に治療に招く事業も始まり、隔年で続いている。

 ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビア、ペルーの南米五カ国でも同様の援護策が八五年に始まった。広島、長崎両県と国が隔年で実施している。

 被爆者が約二千人と最も多い韓国では事情が少し異なる。八一年、日韓政府による渡日治療が始まったが、八六年に韓国側が「自国で治療できる」として打ち切った。

 一方、韓国政府は基金拠出を日本政府に要請し、九〇年の日韓首脳会談で海部俊樹首相が人道的支援として拠出を表明。四十億円を原資に治療費の自己負担分と月額約一万円の現金給付が実現した。

 北朝鮮とは国交がなく、今のところ政府間で合意した支援策はない。日本政府は昨年三月、初の調査団を派遣した。平壌市に被爆者の治療拠点、放射線医学研究所があるが、専門医や設備は不十分とされる。

 南米、北米、朝鮮半島以外にも、強制連行されて被爆した中国人、東南アジアから広島に留学中に被爆した南方特別留学生のほか、海外に移った日本人の被爆者も点在している。詳しい実態は分かっていない。

 一時入国した後に出国した在外被爆者を集計した厚生労働省のデータによると、九六―二〇〇〇年の五年間でオーストラリア、中国、ポルトガルなど十八カ国・地域の被爆者が確認されている。外国人と結婚して海外に移り住んだり、仕事で海外赴任したりしている日本国籍の被爆者が多いとみられる。

日本に短期滞在し、被爆者健康手帳の交付を受けた後に出国した在外被爆者数
(延べ人数、厚生労働省データ、北米、南米、朝鮮半島を除く)

        1996 97 98 99 2000
オーストラリア    2  5  2  6    4
中国         4  5  4  2    2
香港         7  4  2  1    2
ポルトガル      1  1  2  4    2
台湾         4  2     1    1
インドネシア     1     1  3    2
フィリピン      2     1  1    1
フランス          1  1  2    1
ドイツ           1  1  1    1
オランダ       1  1     1    1
ベルギー             1  1    2
スウェーデン        1  1       1
メキシコ             1       1
シンガポール        1  1
マレーシア                    1
南アフリカ               1
英国               1
ギリシャ          1

法適用・手当先送り 政府支援策

 在外被爆者への援護法適用を認めた昨年六月の大阪地裁の判決を受け、厚生労働省は控訴する一方で、「在外被爆者に関する検討会」を設置。国内だけに適用が限られている援護法の改正も視野に、学識者ら七人で援護策の協議に着手した。年内に五回にわたり話し合い、韓国、米国、ブラジル在住の被爆者の意見も聞いた。

 しかし、検討会の報告を受けて国が十二月に発表した支援策は、被爆者健康手帳を取るための渡航費の補助や医療機関のあっせんなど、渡日を前提にした事業ばかり。援護法適用や在外被爆者への手当の支給は先送りされた。

 この点について、坂口力厚生労働相は「あくまで第一段階」と強調。援護法適用や在外被爆者への手当給付のための基金創設についても今後、早急に検討を進めることを明らかにした。

 在外被爆者の間では失望感が広がった。在ブラジル原爆被爆者協会と米国原爆被爆者協会は、相次いで基金創設を国や広島県に要望した。高齢化が進む被爆者にとって、三十時間にもおよぶ飛行機での移動は大きな負担で、渡日できない人が多いという。

 韓国原爆被害者協会は賛否を留保している。というのも、日本政府が九三年までに拠出した医療基金四十億円が二〇〇四年度内に枯渇する見通しになり、追加資金を最優先に求めているからだ。今年五月には協会幹部らの代表団が訪日し、九十億円の拠出を坂口厚労相らに直接要望した。

 今までのところ、日本政府からは明確な回答が得られていない。協会は「追加拠出の見通しに答えがない限り、賛否は言えない」としている。

「終戦で外国人」は不合理

仲間のため、闘い続ける

福岡高裁で係争中の元徴用工 李康寧さん(74)=韓国・釜山市

 「日本は創氏改名を強制して日本人として扱いながら、終戦以降は外国人だと突き放す。それでいいのか」。下町にある韓国原爆被害者協会釜山支部。無効になった被爆者健康手帳を無念の思いで見つめる。

     □

 北九州市に生まれた。両親は大正末期、日本に渡っていた。「木村康寧」の名で育った。九州高等経理学校を卒業し、一九四三年に徴用令状を受けて長崎市の三菱兵器工場へ。寮と工場を往復する生活を続けた。八月九日は夜勤明けで、寮の部屋にいた。

 幸い無事だったが、寮は全壊。縁側にいた四人の寮生はあお向けで即死していた。死体がいっぱいの避難所で、けが人の搬送を手伝った。丘の上から見ると、長崎の街は炎に包まれていた。

 友人や寮母の家を転々とした後、原爆投下前に韓国に戻っていた両親のもとに引き揚げた。「ハングルはほとんど分からない。人間としての価値がないように感じた」。釜山で紡績会社に職を見つけて懸命に働き、六人の子どもを育てた。

 裁判を起こすきっかけは、一九九四年の渡日治療だった。糖尿病、ぜんそくと体調を崩し、日本での治療を勧められた。長崎市内の病院に入院すると、月額三万円の健康管理手当を三年間支給する、との市長の証書が届いた。

 しかし三カ月間の治療を終えて帰国すると、手当の入金は止まった。長崎市に電話した。「帰国したから無効になりました。手当がほしいなら日本に住んでください」と言われた。

 「証書には『日本を離れたら支給しない』とは書いてなかった。納得できなかった」。市に支払いを求める要請書を出したが、却下された。県と国に相次ぎ審査請求しても結果は同じ。十分な説明はなかった。

     □

 「解決するには裁判しかない」。九九年に長崎地裁に提訴し、法廷では「日本の被爆者と同等の扱いが念願。日本の不合理を正そうと裁判をしている」と訴えた。

 判決は昨年十二月。裁判長は「在外被爆者のみに不利益になるような限定的な解釈はすべきでない」と、訴えを全面的に認めた。

 喜びもつかの間、国は福岡高裁に控訴した。弁護士からは「健康に注意して六、七年は頑張って」と激励される。自らへの手当支給を求めて始めたが、今では「在外被爆者全体のため」という使命感が強い。

 「最高裁まで続いたとしても、最後の最後までやり抜くつもりです」

移民も同じ被爆者なんよ

進む高齢化、渡日は困難

広島地裁に提訴した在ブラジル原爆被爆者協会会長 森田隆さん(78)=サンパウロ市

 取り出した手帳に、赤い斜線が目立つ。「また一人、また一人と死んでいくんよ。悲しいねえ」。協会を設立した十八年前から、南米で暮らす被爆者が判明するたび、連絡先と被爆状況、生年月日を記してきた。最近、新しい名前より、赤を入れる憂うつばかり増える。

 今年三月一日、被爆者援護法の適用による健康管理手当の支給などを求め、国と広島県を相手取り広島地裁に提訴した。

 心筋梗塞(こうそく)で倒れたのは、その半月前。生死の境をさまよった。意識は戻ったが、同じ集中治療室で息を引き取る人たちを見た。「生きているうちに、南米の被爆者の願いをかなえなくては」。手帳に引く赤の重みをあらためて思った。裁判にかける思いが、いっそう強まった。

     □

 一九四五年八月六日、爆心地から西へ一・三キロの旧山手町(西区)。憲兵として防空ごうの仕上げ作業中だった。背中などに大やけどを負いながらも、爆心地に近い本川沿いで、被爆した朝鮮人皇族李鍝公殿下を見つけ、宇品まで送り届けたという。自身は三日後に動けなくなり、広島県大野町の陸軍病院に入院した。翌年、白血球が急に増えた。「原爆ブラブラ病」の症状も出た。

 「遠く離れたって、あの日は忘れられんよ。どこにいても同じ被爆者なんよ」。倒れて以来、しゃがれて戻らない声で、日本同様の支援がない理不尽さを訴える。

 ふに落ちないと言えばもう一つ。自分たちブラジルの被爆者の多くは戦後の混乱期、人口過剰を防ごうとする国の移民奨励策で、被爆の後障害の危険など何も知らされないまま、故郷を離れた。

 その故郷の政府はどうして今、渡日治療が主体という、自分たちがさほど望まない政策を打ち出すのだろうか。「せっかくの皆さんの税金。私たちが何を求めているか把握し、無駄にしてほしくない」。同じ日本人。でも、支援策は中途半端。割り切れなさと申し訳なさが、妙に入り交じる。

     □

 ブラジルから日本への飛行時間は最短でも二十四時間。直航便のない南米のほかの国なら、なおさらだ。空港までの移動もひと苦労する地域が多い。「帰国治療から戻って亡くなった人も、実は多いんです」

 民間保険が中心のブラジルでは、被爆者は加入を拒否されたり、高額な掛け金が必要だったりもする。保険がきかなかった今回の緊急手術代は、ざっと十二万レアル(約六百万円)かかった。

 サンパウロ市の一角、自らが経営する雑貨店「スキヤキ」内に、協会の事務局はある。いつも手紙や電話で遠方に住む被爆者の安否を気遣い、病み上がりを忘れさせるほど軽快に動き回る。そんな姿に賛同し、ブラジルの十人が同様の提訴に踏み切ろうとしている。

在外被爆者関連の動き

1945年8月 広島、長崎に原爆投下。広島、長崎両市の79年
        の推計で朝鮮人被爆者数は広島で25,000-
        28,000人、長崎で11,500-12,0
        00人
  52年12月 戦後のブラジル移民第一陣54人が神戸港から
         出発。以降、国策として移民を奨励推進
   57年4月 原爆医療法施行。被爆者健康手帳交付へ
   65年3月 韓国のソウル放送が、政府の調べで国内に20
         3人の原爆被爆者がいると伝える
   67年7月 韓国原爆被害者援護協会(800人)が発足
     10月 米国ロサンゼルス在住の被爆者の岡井巴さんが
         広島市長に医師派遣を要請
   68年9月 健康管理手当支給などを盛り込んだ被爆者特別
         措置法施行
   69年5月 厚生省の村中俊明公衆衛生局長が衆院社会労働
         委員会で「原爆2法は治療目的の一時入国者に
         は適用できない」
   70年12月 釜山市の孫振斗さんが佐賀県内に密入国し逮
          捕される。「広島で被爆し治療を受けたくて
          密航した」
   71年10月 孫振斗さんが福岡県に被爆者健康手帳の交付
          申請。県は保留▽米国原爆被爆者協会が発
          足。初代会長に岡井巴さん
   72年3月 孫振斗さんが福岡県を相手に、被爆者健康手帳
         交付を求めて福岡地裁に提訴
   73年3月 広島市の河村虎太郎医師が、被爆者を自費で招
         き治療へ
   74年3月 孫振斗さんの訴訟で福岡地裁が、県の却下処分
         の取り消しを命じる判決。県側は控訴
      7月 東京都が独自判断で、都内で入院中の在韓被爆
         者、辛泳洙さんに初めて被爆者健康手帳を交付
   75年6月 米カリフォルニア州議会が「被爆者は敵だっ
         た」と在米被爆者援護法案を否決
      9月 厚生省が外国人の被爆者健康手帳申請に「適法
         なら入国目的を問わない」との新判断▽広島留
         学中に被爆した元南方留学生でインドネシアの
         アリフィン・ベイさんが広島を訪問
   76年5月 広島市が、治療のため来日中の在韓被爆者、鄭
         七仙さんに健康管理手当の支給を決める
   77年3月 日本人医師団による初の在米被爆者検診がロサ
         ンゼルス市で始まる。カリフォルニア州4市で
         106人が受診
   78年3月 孫振斗さんの上告審で最高裁判決。「原爆医療
         法は、特殊な戦争被害について国が自らの責任
         で救済を図るのが目的。不法入国にも適用され
         る」。孫さんの勝訴確定
   79年5月 広島県が県内から南米に移住した被爆者24人
         を確認
   80年11月 日韓両政府が在韓被爆者の渡日治療を試行。
          10人が広島原爆病院で入院治療へ
   81年11月 在韓被爆者の渡日治療は年間約50人。日韓
          両政府が合意
   84年7月 在ブラジル原爆被爆者協会が設立
   85年10月 初の南米被爆者巡回医師団が広島を出発
   86年7月 韓国政府が「国内の被爆者医療体制が整った」
         として在韓被爆者の渡日治療打ち切りを通告。
         通算18回で349人が来日
   87年4月 韓国政府が在韓被爆者の国内治療開始
     11月 韓国原爆被害者協会が日本政府に23億ドルの
         被害補償を求める
   88年6月 在韓被爆者渡日治療委員会(河村譲会長)が、
         観光ビザによる渡日治療の継続を決める
   89年7月 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に夫婦5組
         10人の被爆者。広島県朝鮮人被爆者協議会の
         李実根会長が確認
   90年3月 広島県医師会が南米の被爆者の里帰り治療実施
         を決める
      5月 日韓首脳会談で日本政府が総額40億円の基金
         拠出を表明。海部俊樹首相は「多くの被爆者が
         後遺症に苦しんでおられることは誠に気の毒に
         思う」
   92年9月 米国原爆被爆者協会(本部サンフランシスコ)
         から分裂した米国広島・長崎原爆被爆者協会
         (本部ロサンゼルス)が発足▽韓国原爆被害者
         協会の郭貴勲会長が広島市内で基金40億円の
         使途を表明。健康管理手当(診療補助費)一律
         支給など
   94年12月 被爆者援護法が成立。「国家補償」や在外被
          爆者について明記せず、国内に限定した医療
          給付や手当支給は変わらず
   97年10月 北朝鮮の「反核平和のための朝鮮被爆者協
          会」代表団が来日。死亡者を含め約730人
          の被爆者を確認と公表
   98年1月 広島県内に強制連行された中国人ら5人が西松
         建設に損害賠償を求めて提訴。支援する市民団
         体によると、強制連行された17人が被爆
     10月 郭貴勲さんが健康管理手当支給などを求め、国
         などを相手に大阪地裁に提訴
   99年5月 在韓被爆者李康寧さんが国と長崎市を相手に長
         崎地裁に提訴
2001年3月 日本政府代表団が北朝鮮を訪れ被爆者の実態を調
        査
     6月 郭貴勲さんの訴訟で大阪地裁が在外被爆者に援護
        法適用を認める判決。国は控訴
     8月 厚生労働省の「在外被爆者に関する検討会」初会
        合
     9月 長崎市の元教員広瀬方人さんが中国滞在中の健康
        管理手当支給などを求め、国と長崎市を相手取
        り、長崎地裁に提訴
    10月 在韓被爆者李在錫さんが国と大阪府を相手に大阪
        地裁に提訴
    12月 厚生労働省が、渡航費用の負担などで、すべての
        在外被爆者の被爆者健康手帳取得を目指す支援策
        を発表▽李康寧さんの訴訟で長崎地裁が援護法適
        用を認める判決。国は控訴
   02年3月 在ブラジル原爆被爆者協会の森田隆会長が国と
         広島県を相手に広島地裁に提訴

(2002年7月2日朝刊掲載)

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