在外被爆者 願いは海を超えて 北朝鮮編 国交なく援護置き去り
02年7月9日
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に住む被爆者の実態を調べるため、六月二十三日から五日間、平壌市を訪れた「朝鮮被爆者調査代表団」に同行した。代表団の一人、広島県朝鮮人被爆者協議会の李実根会長(73)の尽力で、初めて十人の在朝被爆者を確認したのが一九八九年。かつて「被爆者はいない」と繰り返した国は、被爆者を掘り起こし、支援を始めていた。日本政府は新たな在外被爆者支援策に動き始めたが、国交のない北朝鮮への具体策は未知数。置き去りにされてきた在朝被爆者の声を聞いた。(城戸収)
「自分が被爆したことを知ったのは、四十歳の時。母が亡くなる直前に話してくれたんです」。平壌市中心部にある十五階建てマンションの一室。金明愛さん(58)はそう打ち明けた。
金さんは、福山市御幸町の自宅で一緒に住んでいたおばに背負われ、被爆直後の広島市に入った。知人を訪ね、数日後に福山市に帰った、という。
「なぜ自分が病気がちで苦しまねばならないのか。母にそう尋ねたら、被爆が原因だと言われた」と金さん。「母はその時、私の子どもに被爆者であることを絶対話してはならないと言った。私も打ち明けることはできなかった」
だが今年一月、長女が三十四歳で亡くなった。白血球減少症だったという。「元気だった娘を突然亡くし、自分の被爆を隠してはだめだ、と思ったんです」。現地の被爆者団体にも初めて打ち明けた。
今は、二女李香蘭さん(33)夫婦の家に身を寄せている。子宮からの出血や貧血も頻繁にあり、肝臓に腫瘍(しゅよう)も見つかった。
「体の弱い私でも、世界の平和を訴えることはできる」。部屋の天井には、折り鶴がつり下げられてあった。
県朝鮮人被爆者協議会の李会長の姿を見て、平壌市内の会館で待っていた母子が声を上げた。金高万さん(84)と長女羅敬順さん(66)、三女羅潤順さん(56)。帰国前に住んでいた広島市安佐南区古市で、李会長と近所同士だった。思いがけない約四十年ぶりの再会に、歓声とおえつが交じった。
「今もあの日を思い出すと体が震える」。金さんは、言葉を選びながら語り始めた。金さんの夫を捜すため、三人は被爆直後の廃虚の広島をさまよい、放射線を浴びた。
一家はあの日、親類の結婚式のため、現在の広島県千代田町にいた。夫は西区天満町にあった当時の自宅の様子を見に行ったまま帰らない。後を追って金さんが入市したのは八月九日。敬順さんの手を引き、潤順さんを身ごもっていた。
病に苦しんだ夫を一九五三年に失い、一家は六一年に帰国。だが、その後も病との格闘は終わらなかった。金さんは長期入院を何度も繰り返し、二人の姉妹はともに四十五歳で子宮を摘出した。
金さんは「日本から薬一つもらえずに死ぬと思うと寂しい」。途切れた母の言葉を継ぎ、潤順さんが訴えた。「母さんの手に、日本の被爆者と同じものを握らせてください。それが願いです」
朝鮮被爆者調査代表団の団長で、日弁連人権擁護委員会朝鮮人被爆者問題調査委員長でもある高木健一弁護士(東京都)に、今回の調査の成果や、在朝被爆者支援に向けた日弁連の取り組みなどについて聞いた。
―十四人の被爆者に会いました。
置き去りにされた在朝被爆者の救済を日本政府や社会に働き掛けるには、現地の被爆者の声を届けるしかない。北朝鮮には、広島弁で話す被爆者が確かにいた。在朝被爆者の実態は十分明らかにされていないだけに、直接話を聞くことができたのは収穫だ。
―日本政府が進める渡日治療事業に、批判的な声が多くありました。
高齢化した被爆者が渡日する困難さに加え、「治療したと日本に宣伝されるのが問題だ」という考えが北朝鮮当局にある。事業中止になった韓国の場合と同様の議論だが、やはり被爆者個人の意思が尊重されるべきだ。
―日弁連として、初の在朝被爆者調査をどう生かしますか。
抽象的な「謝罪と補償」の言葉で、日本政府を動かすのは難しい。だから今回、被爆者病院建設を望む現地の意思を確認できた意義は大きい。戦後責任の第一段階としてそうした施設建設をするよう、日本政府へ求めていきたい。
北朝鮮で会った十四人の被爆者たちは口々に、健康不安を訴えた。一方、医療費は無料であり、多くが「国の恩恵を受け、被爆者は優先的に治療してもらっている」と強調した。被爆者医療の実情はどうなのか。一端を担う放射線医学研究所(平壌市)を訪ねた。
市中心部から車で約二十分。住宅街の一角にある研究所で、金昌信所長と白衣の医師三人が取材に応じてくれた。「共和国での被爆者医療の歴史は浅く、日本より遅れているのは事実」と、金所長は視線を落とした。
研究所が、被爆者を治療し始めたのは一九九五年という。昨年、研究所を訪れた被爆者は百六十五人。九五年二月に発足した「反核平和のための朝鮮被爆者協会」が確認し、治療を望めば紹介するという。
だが、「あくまで研究所であり、被爆者専門の病院ではない」と金所長。韓英愛医師は、がん診断に欠かせない磁気共鳴診断装置(MRI)などの設備がないことを嘆いた。「正確な診断もできず、結局、疾患に応じた別の病院に回すことになる」
昨年三月、日本政府の調査代表団に参加し、現地の医療機関を訪ねた広島原爆障害対策協議会健康管理・増進センターの伊藤千賀子所長は「総合して日本の一九六〇年代後半から七〇年代初めのレベル。被爆者に対する医師の知識も不足している」と指摘する。
また、医薬品不足も深刻そうだ。今回、取材した被爆者の中には「皮膚病に硫黄を加工して塗っている」「病院で薬草をもらう」と話す人もいた。
広島の医療機関を視察した経験を踏まえ、金所長は「被爆者に必要なのは、治療と研究を兼ねた総合的なセンター」と言う。「北朝鮮の医師がそう願っていることを日本政府に伝えてほしい」。設備も薬も足りない中で、被爆者と向き合い始めたばかりの医師の、率直な思いだろう。
(2002年7月9日朝刊掲載)
金明愛さん(58) 貧血・腫瘍、病気絶えず
「自分が被爆したことを知ったのは、四十歳の時。母が亡くなる直前に話してくれたんです」。平壌市中心部にある十五階建てマンションの一室。金明愛さん(58)はそう打ち明けた。
金さんは、福山市御幸町の自宅で一緒に住んでいたおばに背負われ、被爆直後の広島市に入った。知人を訪ね、数日後に福山市に帰った、という。
「なぜ自分が病気がちで苦しまねばならないのか。母にそう尋ねたら、被爆が原因だと言われた」と金さん。「母はその時、私の子どもに被爆者であることを絶対話してはならないと言った。私も打ち明けることはできなかった」
だが今年一月、長女が三十四歳で亡くなった。白血球減少症だったという。「元気だった娘を突然亡くし、自分の被爆を隠してはだめだ、と思ったんです」。現地の被爆者団体にも初めて打ち明けた。
今は、二女李香蘭さん(33)夫婦の家に身を寄せている。子宮からの出血や貧血も頻繁にあり、肝臓に腫瘍(しゅよう)も見つかった。
「体の弱い私でも、世界の平和を訴えることはできる」。部屋の天井には、折り鶴がつり下げられてあった。
金高万さん(84) 長女・羅敬順さん(66) 三女・羅潤順さん(56) 日本からは薬一つなく
県朝鮮人被爆者協議会の李会長の姿を見て、平壌市内の会館で待っていた母子が声を上げた。金高万さん(84)と長女羅敬順さん(66)、三女羅潤順さん(56)。帰国前に住んでいた広島市安佐南区古市で、李会長と近所同士だった。思いがけない約四十年ぶりの再会に、歓声とおえつが交じった。
「今もあの日を思い出すと体が震える」。金さんは、言葉を選びながら語り始めた。金さんの夫を捜すため、三人は被爆直後の廃虚の広島をさまよい、放射線を浴びた。
一家はあの日、親類の結婚式のため、現在の広島県千代田町にいた。夫は西区天満町にあった当時の自宅の様子を見に行ったまま帰らない。後を追って金さんが入市したのは八月九日。敬順さんの手を引き、潤順さんを身ごもっていた。
病に苦しんだ夫を一九五三年に失い、一家は六一年に帰国。だが、その後も病との格闘は終わらなかった。金さんは長期入院を何度も繰り返し、二人の姉妹はともに四十五歳で子宮を摘出した。
金さんは「日本から薬一つもらえずに死ぬと思うと寂しい」。途切れた母の言葉を継ぎ、潤順さんが訴えた。「母さんの手に、日本の被爆者と同じものを握らせてください。それが願いです」
調査団長・高木健一弁護士に聞く 病院の建設を求めていく
朝鮮被爆者調査代表団の団長で、日弁連人権擁護委員会朝鮮人被爆者問題調査委員長でもある高木健一弁護士(東京都)に、今回の調査の成果や、在朝被爆者支援に向けた日弁連の取り組みなどについて聞いた。
―十四人の被爆者に会いました。
置き去りにされた在朝被爆者の救済を日本政府や社会に働き掛けるには、現地の被爆者の声を届けるしかない。北朝鮮には、広島弁で話す被爆者が確かにいた。在朝被爆者の実態は十分明らかにされていないだけに、直接話を聞くことができたのは収穫だ。
―日本政府が進める渡日治療事業に、批判的な声が多くありました。
高齢化した被爆者が渡日する困難さに加え、「治療したと日本に宣伝されるのが問題だ」という考えが北朝鮮当局にある。事業中止になった韓国の場合と同様の議論だが、やはり被爆者個人の意思が尊重されるべきだ。
―日弁連として、初の在朝被爆者調査をどう生かしますか。
抽象的な「謝罪と補償」の言葉で、日本政府を動かすのは難しい。だから今回、被爆者病院建設を望む現地の意思を確認できた意義は大きい。戦後責任の第一段階としてそうした施設建設をするよう、日本政府へ求めていきたい。
放射線医学研究所(平壌市) 設備・情報ともに不足
北朝鮮で会った十四人の被爆者たちは口々に、健康不安を訴えた。一方、医療費は無料であり、多くが「国の恩恵を受け、被爆者は優先的に治療してもらっている」と強調した。被爆者医療の実情はどうなのか。一端を担う放射線医学研究所(平壌市)を訪ねた。
市中心部から車で約二十分。住宅街の一角にある研究所で、金昌信所長と白衣の医師三人が取材に応じてくれた。「共和国での被爆者医療の歴史は浅く、日本より遅れているのは事実」と、金所長は視線を落とした。
研究所が、被爆者を治療し始めたのは一九九五年という。昨年、研究所を訪れた被爆者は百六十五人。九五年二月に発足した「反核平和のための朝鮮被爆者協会」が確認し、治療を望めば紹介するという。
だが、「あくまで研究所であり、被爆者専門の病院ではない」と金所長。韓英愛医師は、がん診断に欠かせない磁気共鳴診断装置(MRI)などの設備がないことを嘆いた。「正確な診断もできず、結局、疾患に応じた別の病院に回すことになる」
昨年三月、日本政府の調査代表団に参加し、現地の医療機関を訪ねた広島原爆障害対策協議会健康管理・増進センターの伊藤千賀子所長は「総合して日本の一九六〇年代後半から七〇年代初めのレベル。被爆者に対する医師の知識も不足している」と指摘する。
また、医薬品不足も深刻そうだ。今回、取材した被爆者の中には「皮膚病に硫黄を加工して塗っている」「病院で薬草をもらう」と話す人もいた。
広島の医療機関を視察した経験を踏まえ、金所長は「被爆者に必要なのは、治療と研究を兼ねた総合的なセンター」と言う。「北朝鮮の医師がそう願っていることを日本政府に伝えてほしい」。設備も薬も足りない中で、被爆者と向き合い始めたばかりの医師の、率直な思いだろう。
(2002年7月9日朝刊掲載)