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どこにいても被爆者 韓国人5人 広島で入院

 広島を訪れている在外被爆者たちも六日、五十七年前の夏に思いをはせた。海外に暮らすが、あの日に見た忌まわしい記憶も、戦後の苦労も、被爆者としての思いはどこにいても変わらない。「二度と核兵器が使われないように」

 釜山市の李一守さん(72)ら韓国在住の被爆者五人が五月下旬から入院する広島県西部の病院。午前八時十五分。平和記念式典を中継するテレビから鐘の音が響くと、被爆者たちはベッドの上で目を閉じ手を合わせた。「日本の人も韓国の人も安らかに…」。李さんは心の中で繰り返した。

 李さんは広島生まれ。両親は大正末期に職を求め広島に渡った。建物疎開に向かう途中、大州(南区)で被爆。爆風で吹き飛ばされ、手や足は血だらけに。青崎(南区)の家に戻ると、腕の皮がはがれた人たちが逃げてきた。母を捜して中心部に入ると、一面に死体。この世の地獄に見えた。

 母とは無事に再会し、一家で韓国に戻った。が、ハングルが分からない。学校に行く余裕がなく仕事もない。五年後、母は吐血し、亡くなった。

 一九九〇年代初め、日本政府から四十億円が拠出され、韓国でも医療費補助や手当支給が部分的に始まった。だが日本の被爆者との格差は埋まらない。広島で集会に招かれると、「日本のために働いたのに、なぜ差別を」と語気は強まる。

 焼けるような日差しが照り付けた中区の平和記念公園。ブラジル・バストス市から渡日治療中の向井春治さん(72)の姿があった。「両親はここにいます」と原爆慰霊碑に花を手向けた。米サクラメント在住のマーク・ファンさん(76)は木陰で平和記念式典を見守り、「多くの犠牲者がとこしえに、安らかに眠ってほしい」とめい福を祈った。

 式典が終わるころ、テレビに向かう李さんの目に涙がにじんだ。「原爆は絶対禁止」と繰り返した。八日、帰国する。国境を越えた途端、被爆者健康手帳は効力を失う。

(2002年8月7日朝刊掲載)

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