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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 特別論説委員 岩崎誠 没400年の福島正則

まちづくりの礎 再評価したい

 戦国武将として歴史に名を残した福島正則(1561~1624年)の故郷、愛知県を訪れた。

 豊臣秀吉のいとこ、とも伝えられる。天下取りを歴戦の猛将として支え、関ケ原の合戦で徳川家康に味方して広島城主となる。城修復が幕府にとがめられ、信州に改易されるまで20年近く、49万8千石の安芸・備後の地を治めた。

 ことし没後400年になる、と気付いた。しかし広島では話題にもならない。古里のゆかりの地では顕彰の動きが盛んと聞いた。

 名古屋市の中心部へ。繁華街沿いを南北に貫く堀川のほとりを歩いた。地元ライオンズクラブが6年前に川べりの空間に建立した、全国唯一という正則の銅像が目に入ってきた。広島の治世の傍ら、この運河の開削を幕府の命令で担ったのが、正則なのだ。

 工事の指揮を執る姿の高さ2メートルの像は「名古屋発展の礎 福島正則公」。徳川家の城づくりに合わせ、1610年ごろに開いた約7キロの川は城下と熱田の港を結ぶ。近世は木材、明治以降も輸出入品が往来して経済の動脈となった。この像は歴史を再発見し、美しい水辺を再生するシンボルと聞く。広島に移るまで尾張の清洲城主だった正則への親しみもあろう。

 名古屋の西、あま市に足を運んだ。大都市近郊の農業地帯。二ツ寺(ふたつでら)という地区に正則の生家があった。大正時代に県が建立した生誕地の碑に近い菩提(ぼだい)寺の菊泉院に、前住職の山田泰信さん(82)を訪ねた。没後に家臣が奉納した正則の位牌(いはい)や護持仏を見せてもらう。

 この地は明治の町村制で「正則村」を名乗り、その名残から今も正則小がある。児童たちはこの寺で座禅体験をしつつ正則の足跡を学ぶそうだ。「正則公の歴史を学び伝えようと、声を大にして言いたい」と山田さんは力説した。

 境内には供養塔と没後380年の記念碑もある。毎年7月13日の命日の前に法要があり、四百回忌の昨年には、盛大に顕彰祭が営まれた。地元の福島正則公顕彰会が作成した寺所蔵の肖像画のクリアファイルをもらい、郷土の英雄として敬愛を集めているさまを、肌で感じた。

 広島はどうか。長く地域史をフィールドに取材し、正則ゆかりの歴史遺産や言い伝えにはよく接してきた。厳島神社の平家納経を修復したのは広く知られる。呉市の下蒲刈島には海上交通路の整備で築いた「福島雁木(がんぎ)」が残る。その割には毛利、浅野に挟まれる福島時代へのリスペクトをさほど感じないのは残念だ。

 それでも正則がまちづくりの基盤を整えたのは確かだろう。広島に入国早々、津々浦々まで徹底した検地を断行し、年貢を村単位で集めるようにしたのも一つ。その時に近代以降の市町村の原形ができたと考えられ、50カ村ほどの検地帳が現存する。

 広島城下で何をしたか。毛利時代の武家屋敷地を見直し、町人地を拡大して5ブロックに分けて町人の自治制度を設けたとされる。商業振興に力を入れ、西国街道沿いには胡町を置いて「えびす講」を今も営む胡子神社を移した。

 「福島の時代にはひどい目に遭った」との声を、ある寺で聞いたことがある。正則は中世以来の寺社の所領を取り上げるなど過酷な宗教政策の一方、浄土真宗の寺々を集めて城下に再配置した。現在の広島市中区寺町である。またキリシタンを保護し、広島に教会やハンセン病の病院をつくらせた。これらを考えると、広島の中世以来の社会を変え、近世の扉を開いた功労者は、やはり正則と言えるだろう。

 広島城で正則について調べてきた篠原達也・ヌマジ交通ミュージアム学芸員と語り合った。大名家や家臣宛ての書簡などの史料は結構あるが広島城下の実像が分かるものは少なく、江戸後期の広島の地誌に頼るのが実情のようだ。

 そういえば広島と名古屋で普請の時期が重なると相当な負担だったはずだ。費用はどうしたのか。芸備地方で盛んだった、たたら製鉄の収益も財源としたのではと、篠原さんは想像する。福島時代はいまだ多くの謎に包まれる。

 その正則は幼少期から粗暴気味とされ、広島時代も刑罰などで残虐ぶりが伝わる。ただ改易後に誇張された面もありそうだ。福山市の鞆城など領内に6支城を築き、広島城の外周部で川の堤防を高くするなどした土木技術のエキスパートとしての手腕は、少なくとも再評価に値するのではないか。

 広島では城下町の歴史への関心が他都市と比べ、低いと言わざるを得ない。原爆で街が失われた影響もあろう。広島城三の丸では、2026年10月に市の歴史館の開館を予定している。愛知に負けじと「広島発展の礎」としての正則の役割にもっと光を当て、実像に迫っていくべきだ。悲運の武将の足跡を追い、しみじみ思う。

(2024年4月18日朝刊掲載)

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