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抑留・引き揚げ 苦難伝える 京都「舞鶴引揚記念館」 帰国者迎えた市民も紹介

 第2次世界大戦の終戦後、旧満州(中国東北部)、朝鮮半島や太平洋の島々など日本が植民地支配、あるいは統治していた各地から約660万人が帰還した。旧ソ連の参戦で、軍人・軍属らはシベリアに抑留された。帰国者を乗せた船の入港地として13年間に約66万人を受け入れたのが舞鶴港(京都府舞鶴市)だ。日本の敗戦から始まった人間の苦難を伝える同市の「舞鶴引揚記念館」を訪れた。(金崎由美)

 延べ346隻の引き揚げ船が入ったという海を眼下に望む「引揚記念公園」。高台の一角に記念館は立つ。館内にはシベリア抑留者が使った厚手の粗末なコート、手書きの日記や絵、手作りのスプーンなどが並ぶ。鉄道建設や森林伐採といった強制労働に耐える毎日を支えた日用品だ。

 中でも目を引くのが「白樺(しらかば)日誌」だ。薄い白樺の樹皮に、インク代わりの煙突のすすで和歌を記す。「白樺の焚(たき)火を囲みつ…帰還(ダモイ)話に花を咲かす」。望郷の念がにじむ。

 収蔵品は約1万6千点。長嶺睦学芸員は「民間人の引き揚げも資料収集の対象だが、長期のシベリア抑留ゆえ残され、体験者や家族が寄贈した生活資料が多い」と説明する。今も年間30~40件の申し出を受け入れているという。

 同館は、引き揚げ体験と歴史的な背景だけでなく、抑留者の救済運動に尽くした人たちや、舞鶴港に下り立った帰国者を温かく迎えた地元市民の活動、肉親の復員を待つ家族についても詳しく伝える。演歌歌手二葉百合子の曲「岸壁の母」は、帰らぬ息子を思い東京から来た実在の女性を歌う。「一日千秋の思ひで待って居ります」としたためた紙片などを展示している。

 舞鶴は1万6千余の遺骨の帰還港でもあった。戦後、呉や門司(北九州市)にも引き揚げ船が入港したが、1950~58年は舞鶴が唯一の指定港となった。同館は、象徴的な地に戦争の悲惨さを語り継ぐ場を、と願う体験者らの運動が実り88年に開館した。94年には高台の麓に「引揚桟橋」を復元。2015年、「白樺日誌」36枚などの記録物570点が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」に登録された。

 「登録は戦争体験を次世代に継承する弾みとなった。さらに、次世代による継承につなげたい」と山下美晴副館長。登録を機に館内ガイド「語り部」の養成に力を入れ、中高生ら若者も平和の伝え手となっている。

(2024年4月22日朝刊掲載)

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