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連載・特集

ヒロシマの空白 未完の裁き <1> 東京裁判

 広島、長崎への原爆投下はあまたの市民の命を奪い、放射線障害の苦しみを与え続けた。この実態を、裁判所で世界で初めて国際法違反と判断したのが、東京地裁の「原爆裁判」(1963年判決)だ。投下国の米国と日本政府いずれの立場にもあらがう判決はどのような意思から生まれ、今どんな意味を持つのか。関係者の資料や証言で軌跡をたどり、考える。(編集委員・水川恭輔)

原爆投下 責任不問に怒り

 東京都新宿区にある防衛省。その中にある「市ケ谷記念館」は、国防の中枢の地で、79年前の敗戦を色濃く刻んでいる。

 もともとは1937年に陸軍士官学校本部として建てられ、戦時中は陸軍大臣室も置かれた。それが、敗戦で一転。大講堂は、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷に使われた。米英中はじめ勝った連合国が日本の戦争指導者たちを裁いた。

 弁護士の岡本尚一さん(58年に66歳で死去)は弁護団の一人として連日法廷に通った。後に提唱する「原爆裁判」は、この法廷で着想した。

 「悔しかったと思います。あれほど悲惨な原爆投下の責任が問われないで何で通るのかと」。孫の村田佳子さん(69)=兵庫県芦屋市=は、手元に残る祖父の資料に触れると、しみじみ感じる。

「戦争を罪悪視」

 岡本さんは1891年に三重県で生まれ、44歳で大阪に弁護士事務所を開いた。友人たちの評は「正義感が強い」や「情熱家」。1945年の終戦直後は、大阪の検事たちが捜査で差し押さえた砂糖をわが物にしていた不祥事を追及していた。

 「戦争そのものは尊い人命を奪うものとして罪悪視しており、これを極めて憎んでいた」。長男拓さん(85年死去)は父の回顧録にそう記す。東京裁判の弁護団に加わったのは、弁護士清瀬一郎さんの依頼。岡本さんが独立前に勤めていた事務所の代表者で戦時中に陸軍省顧問を務めていた。

 東京裁判は、米軍が率いる連合国軍総司令部(GHQ)が「公正且ツ迅速ナル審理」を掲げた設置条例に基づく。弁護団は英米法に詳しい米国人もあてがわれ、日本人と合わせ50人以上が関わった。裁判官は連合国11カ国から1人ずつ選ばれた。

 GHQは、国際検察局を設置。「平和に対する罪」などで東条英機元首相たち28人が起訴された。旧日本軍による真珠湾攻撃や捕虜虐待などへの責任が問われた。

 46年5月3日に開廷された。6月4日、冒頭陳述に臨んだ米国人のジョセフ・キーナン首席検事は、日本の罪の裁きは「戦争の惨害防止の目的に寄与する」と訴えた。

法廷により追及

 岡本さんの回顧によれば、この陳述を聞くうちに、連合国が不問にしようとする原爆投下の惨禍の責任を問おうとひらめいた。「原爆投下の責任を、法曹の立場において確乎(かっこ)とした法廷と法理によって追及する」ことだった。

 原爆の使用が罪ではないのならば、戦争に勝つためには再び使われかねず、連鎖は世界を破滅させる。岡本さんは、人類の危機を見据えていた。

極東国際軍事裁判(東京裁判)
 第2次大戦後の1946年5月~48年11月に開かれ、連合国が日本の戦争指導者たちを裁いた。侵略戦争の計画準備や遂行などを理由とする「平和に対する罪」、捕虜の扱いなどを定める国際法への違反に関わる「通例の戦争犯罪」などが問われた。起訴された28人のうち途中で死亡するなどした3人を除く25人が有罪。うち7人が絞首刑となった。

(2024年4月22日朝刊掲載)

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