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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 田丸芳嗣さん―惨状や臭い トラウマに

田丸芳嗣(たまるよしつぐ)さん(85)=広島市西区

同じ苦痛 次世代に味わってほしくない

 あの日から79年がたとうとする今も、田丸芳嗣さん(85)にとってどうしても足を運ぶ気持ちになれない場所があります。国重要文化財の被爆建物「旧陸軍被服支廠(ししょう)」(広島市南区)と己斐小(西区)です。ここで目の当たりにした光景は、苦しみの記憶(きおく)として心に刻まれています。

 田丸さんは当時6歳(さい)で、己斐国民学校(現己斐小)の1年生。両親と祖父母、弟と暮らしていました。8月6日の朝は、飛行機の音が聞こえたため様子を見ようと自宅そばの旭山神社(西区)の方向に父と行きました。まだ登校していなかったと記憶しています。いったん父から離れ、近くの伯母(おば)宅へ。玄関(げんかん)に入った途端(とたん)、ピカッとフラッシュをたいたような光と、ドンという大きな音に襲(おそ)われました。

 家に戻(もど)ると、やけどを負った父がいました。旭山神社は爆心地から約3キロですが「下着姿だったからか、体を焼かれていた。触(さわ)ると皮膚(ひふ)がむけた」。ガーゼ代わりに浴衣を小さく裂(さ)き、食用油を染(し)み込(こ)ませて手当てをする母と祖母の姿を覚えています。

 安田高等女学校(現安田女子中高)に通っていた従姉(いとこ)は、翌7日も伯母宅に帰ってきません。負傷者が運び込まれていると聞き、被服支廠へ伯母と歩いて行きました。「地面が熱くて」。市街地はまだ火がくすぶり、その熱がわら草履(ぞうり)を通して足裏に伝わってきました。

 被服支廠に着くと「お母さん助けて」と悲痛な声が聞こえてきます。死体のようなものが山積みになっているのも見えました。なんとも言えないきつい臭(にお)いも充満(じゅうまん)。思わず入り口で座(すわ)り込(こ)みました。従姉は後に、自力で帰宅しました。

 己斐国民学校の状況(じょうきょう)も、残酷(ざんこく)でした。被災者の救護所となり、校庭に掘(ほ)られた穴には焼却(しょうきゃく)のため遺体が次々と投げ入れられていました。「人間がこんな扱(あつか)いを受けるのか」。怒(いか)りがこみ上げてきたといいます。瀕死(ひんし)の女性に足をつかまれ「水ちょうだい」と懇願(こんがん)されましたが、走って逃(に)げました。

 程なく田丸さんは体調を崩してしまいます。急性症状とみられる嘔吐(おうと)や吐血(とけつ)、脱毛(だつもう)に襲われました。さらに、被服支廠と国民学校での記憶は「トラウマ(心的外傷)として残った」のでした。学校に通うことはどうしてもつらかったそうです。

 その後、父親の仕事の関係で中学と高校は東京へ進学。大人になっても、自分の被爆体験と向き合えずにいました。しかし、自分と同じような苦痛を子どもたちの世代に味わってほしくない、との願いは心の中で大きくなっていました。

 そんな自分に、できることがあるはず―。思いを行動に変えた転機は、古希を過ぎた2009年。平和記念公園(中区)内を案内するヒロシマピースボランティアの活動を知って関心を持ち、研修(けんしゅう)を受けた後に活動を始めました。

 14年8月には広島土砂災害で被災し、九死に一生を得るなど、年を重ねてからも大変な目に遭いました。でも「被爆当時を知る体験者は少なくなっているのだから」と使命感を持ち続け、活動してきました。「核兵器の怖(こわ)さを知らない世代こそ、その実態を知ってほしい」。知識と想像力が、次世代を守る力になると信じています。(小林可奈)

私たち10代の感想

体験を聞いて語り継ぐ

 父がやけどを負い、皮膚がずるっとむけるのを見た幼(おさな)い田丸さんの気持ちを想像し、苦しくなりました。世界には今も田丸さんのように肉親の残酷な姿(すがた)に直面する子どもが多くいます。高校生が戦争を直接止めることは難しいかもしれません。でも、体験を聞き、語り継(つ)ぐことはできます。受け身で終わらない行動の必要性を実感しました。(高1山下裕子)

核兵器のむごさ感じた

 「現代の子どもは核兵器の怖さを知らない。だからこそ、伝えなければ」という言葉が忘れられません。私は、田丸さんを今も苦しめる当時の臭いや地獄(じごく)のような光景を、まだはっきりと想像できません。でも、今回の取材で改めて、核兵器や戦争のむごさを感じました。田丸さんの言葉を胸(むね)に、もっと学んでいきます。(中3西谷真衣)

 今回取材した田丸芳嗣さんは記憶が鮮明で、印象的な話をたくさんうかがうことができました。
 特に心に残ったのは、戦時下の市民生活についてです。例えば、1943年ごろは米7升分だった着物1枚の価値が戦況悪化に伴い、米1升程度にまで減りました。食糧難のため、小学校の遠足の時には、弁当を持参できない同級生もいたそうです。私自身も経験したことがある学校行事の話では、79年前の出来事ではありますが遠い昔のことと思えず、こうした市民の日常を一瞬にして奪った核兵器は、いかなる理由があれ存在してはいけないと思いました。(高3小林芽衣)

 原爆投下直後に国民学校で数多くの遺体や負傷者を目の当たりにしたことで、学校に通えなくなったという田丸さんの話が印象的でした。戦争は子どもたちの生活に影を落とし、貴重な子ども時代を大きく変えてしまいます。
 被爆者の平均年齢は85歳となる今、被爆の実相を広く語り続けていくことが求められています。私たち若い世代が当時の子どもたちの声を伝えていかなければならないと改めて感じました。(高2山口莉緒)

 田丸さんの話で私が一番印象に残ったのは、死体を焼く臭いです。当時小学生だった田丸さんにトラウマを植え付けるほどのものだったそうです。体験した人だからこそ分かる被爆の実態を学ぶことができました。高齢化が進む被爆者の証言を聴く機会は、今後ますます貴重になります。世界には、たった一発の核兵器がどれほど恐ろしいものかを分かっていない人もいます。もっと多くの人に被爆者の証言を聞いてほしいです。(高1戸田光海)

 印象に残ったのは、己斐小の校庭で遺体が焼かれる場面と、一帯に漂っていた臭いを田丸さんが今も忘れられないということです。まだ小学1年だった田丸さんにとって、衝撃的でとても怖い体験だったのだろうと想像しました。そして、多くの尊い命を一瞬で奪い、その遺体が尊厳を持って扱われない事態をつくる核兵器は、絶対に存在してはいけないと思いました。
 田丸さんは私たちに「来年、被爆80年を迎えることについて、どう思いますか」と問われもしました。被爆者の方たちをもっと取材して過去から学び、当時のことが風化しないように頑張っていこうと思いました。(中3矢沢輝一)

 戦時中、田丸さんの母は自分の着物と米を物々交換していました。1943年ごろは着物1枚につき米7升ほどでしたが、45年ごろには米1升あるかないかにまで減ったそうです。当時は比較的裕福だった田丸家も米が十分手に入らないほど食糧不足でした。田丸さんへの取材を通じ、原爆被害だけでなく戦時中の苦しい生活状況も学ぶことができました。原爆投下だけでなく、食糧不足など戦争がもたらすさまざまな被害を伝えていきたいです。(中2山下綾子)

 田丸さんの話を聴き、原爆に関する資料を見たり読んだりするだけでは分からない当時の光景や被爆者の気持ちを学ぶことができました。
 取材で一番心に残ったのが「今の世代の子供たちは、核兵器の怖さを知らない」という田丸さんの言葉です。世界に核兵器がある限り、今も、その怖さはなくなっていません。だからこそ、田丸さんが僕たちに体験を伝えているのだと思いました。
 今回、僕は初めて取材をしましたが、たくさんの反省点があります。例えば、先輩のジュニアライターは、要点を絞ってメモを取っていました。でも、僕は田丸さんの言葉を全部ノートに記そうと必死で、逆に大事なことを書き逃してしまいました。この反省を基に、次の取材を頑張り、被爆者の体験や思いをもっと継承していきたいです。(中1岡本龍之介)

 ◆孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801。

(2024年4月22日朝刊掲載)

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