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社説・コラム

『今を読む』 広島被爆者団体連絡会議事務局長 田中聰司(たなかさとし) 原爆投下の謝罪

戦争も核もなくす出発点に

 カトリック系の国際平和団体の巡礼団が3月中旬、広島、長崎を訪れ、原爆投下について被爆者と市民に謝罪を表明した。折しも、広島市の平和記念公園と米パールハーバー国立記念公園との姉妹協定を巡り、謝罪論議がくすぶる。「被爆から78年余りもたって、いまさら?」の声もある。広島の被爆者6団体と巡礼団が「謝罪」から平和を目指す共同宣言を発した意義を考えてみたい。

 この巡礼団は、パックス・クリスティ米国支部の11人。8月に予定した被爆地訪問を復活祭(4月初旬)の前に繰り上げた。ウクライナやパレスチナでの戦火がやまず、核戦争の危機が高まる切迫感に駆り立てられたからという。

 取り次ぎ役のカトリック広島司教区の白浜満司教から「同胞が犯した残虐な行為に、ゆるしを求め対話を始めたい」との申し入れが昨年12月、広島被爆者団体連絡会議に届いた。参加団体はその真心を素直に受け入れると同時に、せっかくの機会を単に謝罪の場だけに終わらせまいと返答。白浜司教を介して双方が年をまたいで意見交換を重ねた結果、生まれたのが「ともに核兵器廃絶をめざすヒロシマ共同宣言」である。

 宣言の前文に「胸のつかえが少し取れ」と「少し」の言葉を付けた。謝罪の表明を全面的には喜べない被爆者の正直な気持ちを記しておきたかったのだ。米国政府の公式な謝罪がない限り、そして核兵器がなくならない限り、被爆者の胸のつかえが取れることはない。無数の犠牲者たちの無念が晴れ「安らかに眠れる」日は来ない。この思いを巡礼団はすぐ理解され、自国の政府に被爆者と一緒に謝罪を求める項目を宣言の最初に掲げたのである。

 核時代79年、戦争も核の開発競争もやむことがなく、核の被害者(ヒバクシャ)も増え続けてきた。平和を求める世論に耳を貸さず、国際的な取り決めも足蹴(あしげ)にする指導者たちの(特に大国の)傲慢(ごうまん)、理不尽、非道な振る舞いがまかり通り、加害の責任や罪は見逃されてきた。原爆投下のそれが、問われないままになってきたことと重なる。

 被爆地を訪れる米国民がおわびの気持ちを表すことはあるが、米政府は原爆投下を命じたトルーマン大統領が戦争終結のためと正当化した見解を受け継いできた。2016年に現職大統領で初めて広島を訪れたオバマ氏も、昨年訪れたバイデン氏も「謝罪しない」条件を付けた。日米同盟の強化とともに被害―加害関係の追求は、日本全体でも希薄になっている。

 松井一実広島市長が会長を務める市原爆被爆者協議会が宣言に加わらなかったのは残念だ。市が前述の二つの公園の協定と交流を巡り、原爆投下責任の論議を「棚上げ」したのが理由である。だが過ちは率直に指摘し、認め合わなければ真の和解は生まれず、親交は深まらないのではないか。国際秩序を取り戻し、人類を滅亡から救うため、今こそ世界の加害者たちに謝罪を促す時ではないのか。

 広島の原爆慰霊碑の碑文が、それを示している。過ちを反省して「繰り返さない」と誓うことから戦争をしない(報復の連鎖を断つ)、核を放棄する気持ちに導かれる、と。だからこそ謝罪を起点に取り組む課題として「日米両政府に核兵器禁止条約への参加要請」「ヒバクシャの援護」を宣言に盛り込んだわけである。

 巡礼団のローズマリー・ペースさんは謝罪声明の朗読で、被爆地巡礼の目的を「私たち自身の中にある暴力に挑戦するため」とも述べた。誰でも原爆がもたらした残虐、非道な実相に触れたら、人間の心に立ち返るだろう。宣言の結びには「被爆体験の学習と行動」を据えた。昨年、広島を訪れた先進7カ国の首脳にも求めた、被爆者の願いである。

 巡礼団の一人は「光を求めて被爆者に会いに来ました」とも語ったが、私たちの方こそ光をもらい、活を入れられた。1995年に米国の平和団体が来広し、米国民の署名簿と一緒に謝罪文を原爆資料館に提出したことがあったが、米国民と被爆者が謝罪を踏まえて対話し、共同目標作りへと発展させたのは初めてだろう。その呼び水となった巡礼団に感謝し、つながりを広げていきたい。

 人間の感性と理性に望みをかける営みは科学、政治などの面からのアプローチと違う平和追求の原点だろう。人間性の回復をめざす普遍的なヒューマニズムであり、被爆者運動の理念でもある。私たちの残り時間は少なくなったが、命ある限り、世界の指導者たちの心に訴え続けていきたい。

 1944年下関市生まれ。広島市で被爆し、家族・親族11人が被爆死。早稲田大卒。中国新聞社で報道部記者、論説委員などを務めた。広島県被団協理事、日本被団協代表理事、ヒロシマ学研究会世話人。

(2024年4月20日朝刊掲載)

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