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連載・特集

ヒロシマの空白 未完の裁き <2> 戦争犯罪の審理

被爆証言 未提出で眠る

 1946年5月から2年半続いた極東国際軍事裁判(東京裁判)は、米英中など戦勝国の連合国が日本の戦争指導者らを裁いた。あまり知られていないが、弁護団は水面下で連合国側の原爆投下や都市空襲を追及するための証拠を集めていた。

 その一つが、大阪府吹田市の関西大図書館に眠る。広島市で被爆した西村善一さんの「宣誓供述書」。弁護団の一人で、後に「原爆裁判」を提唱する弁護士の岡本尚一さんが寄贈した東京裁判の資料に含まれる。

7枚の証拠書類

 供述は47年3月30日付。原爆投下直後の惨状を広島で聞き取り、東京裁判の証拠書類の書式で7枚に収めている。

 「未ダ燃エテ居ル死体モアリマシタ。中デモ女学生四五十人腕ニ動員ト書イタ腕章ヲツケテ半焼ノ又裸体ニ近イノガアツタノハ全ク悲惨デ」

 西村さんは当時50代。ガラスで右半身が傷だらけになり今も指の自由が利かないと語っている。

 この文書は岡本さんとは別の弁護団関係者が作成。ほかに、原爆投下に関する雑誌記事も集められた。裁判の速記録をめくると、47年3月3日に記事の証拠採用を巡る論戦が記されている。

 法廷で記事提出を申し出たのは、米国人のベン・ブレークニー弁護士。無差別攻撃や非人道的兵器の使用を制限するハーグ陸戦条約を挙げ、原爆投下は国際法違反ではないかと迫った。同条約違反は戦争犯罪を指す。

米の検察官反発

 米国人の検察官は「審理に無関係」と反発。オーストラリア人のウェッブ裁判長は「原爆投下が戦争犯罪だと仮定しても本裁判にどんな関係があるのか」と問うた。ブレークニー氏は、違反で生じる報復の権利が原爆投下以降の被告の罪の審理に関わると主張。ウェッブ氏は休憩を命じた後、裁判官の多数決を理由に記事の採用を却下した。

 西村さんの供述書の聴取日は、この27日後。なおも採用の糸口はなかったようで「未提出」だったと記録されている。

 一方、検察側は捕虜虐待をはじめ旧日本軍の国際法違反を示すための文書を数多く提出。48年11月、起訴後に死亡するなどした3人を除く25人を有罪、うち7人を絞首刑とする判決が下された。

 岡本さんは後に、連合国側からの日本の違反行為の責任追及は、正当な理由があれば「正義の要求するところ」と記している。ただ、極めて重大な国際法違反に思える連合国側の行為が、全く責任を問われない現実を「不公正」と感じていた。その怒りは判決後も消えることはなかった。

ハーグ陸戦条約
 1899年に採択、1907年に改正された戦争や攻撃の方法に関する国際法。非戦闘員の保護などを目的とする。地上兵力による占領の企てに抵抗しているため軍事目標と非軍事目標との区別が困難な防守都市を除き、非軍事目標に被害を与える無差別攻撃を禁止。「不必要な苦痛を与える兵器」の使用も禁じる。

(2024年4月23日朝刊掲載)

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