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連載・特集

緑地帯 平野薫 ものの声①

 私は、長崎県諫早市の生まれで、高校卒業までを同市で過ごした。諫早市は長崎市から20キロたらずの、現在は人口約13万人、その市名は諫早湾干拓事業のことで耳にしたことがある方が多いだろう。広島や長崎市ほどではないかもしれないが、諫早市でも平和教育が行われていた。

 長崎の夏休みの登校日は8月9日で、私が通っていた小学校の古い木造の校舎の長い廊下には、きまってずらりと白黒の写真が並んでいた。

 父や祖母が戦争の話をすることはほとんどなく、母は福島の生まれなので、幼い頃の私は、広島と長崎に原爆が落とされたことはもちろん、原子爆弾の存在すら知らなかった。小学1年生、はじめての夏休みの登校日、これまでに見たこともないような凄惨(せいさん)な写真が、学校の廊下に並んでいた。これは40年まえの私の記憶なので、頭の中で書きかえられた部分もあるだろう。しかしその写真から、幼い私が目をおおいたくなるほどの衝撃を受けたことは、たぶん書きかえられてはいない。

 そんな衝撃を受けたにもかかわらず、私は原爆に対して、ずっとどこか人ごとだった。祖父が救護活動のために被爆をしたという話を、大人になって父から聞くまでは。

 祖父は私が1歳の時に他界しており、その話を聞くことができるわけもなく、その体験を、私は想像することしかできない。(ひらの・かおる 美術作家=広島県安芸太田町)

(2024年4月23日朝刊掲載)

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