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連載・特集

この人の〝反核〟 <4> 廣島敦隆(弁護士、1945~2022年)

憲法ミュージカルで奮闘

「黒い雨」訴訟 励ます歌も

 5月3日の憲法記念日に合わせ、広島市で「憲法ミュージカル」を上演してきた市民有志の実行委員会がある。毎年、子どもを含め平均50人ほどが出演。身近な社会問題を扱ったオリジナルの脚本で、憲法を暮らしの中に生かそう―と訴える。

 30回目となる今年の舞台が近い。4月上旬、似島(南区)で稽古のための合宿があった。16回目の出演に臨む廿日市市の教員西田正生さん(56)は「憲法の大切さを広めるのにこんなに楽しいやり方があるのかと、いつも感動する」と話す。

 第1回の1994年から「広島東竜」の筆名で脚本を書いてきたのが、広島弁護士会所属の弁護士だった廣島敦隆だ。パーキンソン病を患って2019年にバトンを譲るが、「本職以上にやりがいを感じる」と、共に言い出しっぺである石口俊一弁護士(72)と公演を支え続けた。

 「広島の廣島です」が自己紹介の定番だったが、元々の地縁はない。石口弁護士は「私と同じで、司法修習生として偶然配属された広島にそのまま居着いた。名字に義理立てしたわけではなさそうです」と言う。

 廣島はしかし、まさに「ヒロシマの弁護士」だった。「3号被爆者」に区分される救護活動などの従事者や、放射性降下物を含む「黒い雨」を浴びた住民を原告とする集団訴訟で弁護団長を担う。被爆者健康手帳の交付につながる勝訴を導いた。

 境港市で育った廣島は、東京大文学部に進学。卒業後、東京都庁に就職するも、働きながら東京都立大の夜間の法学部で学ぶ。都庁は3年で退職し、司法試験に35歳で合格、38歳で弁護士となった。異色の経歴である。

 東大生時代はベトナム反戦運動や学生運動に加わり、文学部での専攻は東洋史学、卒業論文はベトナム史だった。「読書家で、ひょうひょうとした教養人だが、権力におもねらない正義感は強い。自分でも弁護士が性に合うと思ったのでしょう」。黒い雨訴訟で弁護団事務局長を担った竹森雅泰(まさひろ)弁護士(46)の見立てだ。

 憲法ミュージカルは「マイライフ・マイ憲法」がキャッチフレーズ。消費者問題、学校教育、高齢者福祉など日常生活にまつわるテーマを主とし、核の問題を前面にした回はない。

 しかし、石口弁護士は「平和に生きる権利は暮らしの根底にある。それを破壊する戦争、原爆への怒りを、廣島さんは弁護士活動からもくみ取って脚本に込めていた」と実感を語る。

 05年の憲法ミュージカルの脚本には、数少ない原爆への直接の言及がある。廣島は、愛読する宮沢賢治を登場させ、ラストでこう語らせた。

 「皆さんはちょうど60年前に悪魔の武器、原子爆弾を落とされて『修羅の地獄』を体験されました。その苦しみは今も続いていると聞いております。ヒロシマ、ナガサキをはじめとする武力による争いの被害を、全世界でなくすために生まれた『まことの言葉』、それが憲法9条であると思います」

 廣島は、憲法ミュージカルの経験を本業にも役立てた。黒い雨訴訟のさなかの20年、高齢の原告たちを励まそうと「黒い雨」と題した歌を作詞。「核兵器はいらない」とつづった。新型コロナウイルス禍で合唱はかなわなかったが、録音を集会で披露した。

 原告の一人、高東征二さん(83)=佐伯区=は「ザーザーザーという雨音で始まる歌詞。分かりやすい歌の力で運動を広め、盛り上げようとした。頼もしい弁護士でした」としのぶ。

 廣島はクラシック音楽も好んだ。ベートーベンは特に愛聴し、「歓喜の歌」(交響曲第9番第4楽章)の替え歌も考案。憲法ミュージカルで何度か披露しており、気に入っていたようだ。

 「戦争とだえぬ 東に西に/一筋の光 我らのもとに/憲法第九条 希望の光/武力にたよらず 平和を創る」

 字面で見れば、あまりの率直さに鼻白む向きも少なくないだろう。しかし、世界中の人が知るあのメロディーに乗せると、どうだろうか。♪武力にたよらず 平和を創る―。現実がその真逆へ傾こうとも、世界中の人と本来分かち合える当たり前の理想に聞こえるから不思議だ。(道面雅量)

ひろしま・あつたか
 1945年2月に米子市で生まれ、終戦後に移った境港市で育った。筆名(雅号)の「東竜」は、敦隆の音読み「トンリュウ」の当て字という。写真は99年、冊子化した憲法ミュージカルの脚本集を手に。計3冊を刊行した。

(2024年4月23日朝刊掲載)

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