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連載・特集

ヒロシマの空白 未完の裁き <4> 原爆被害者の会

米に怒り 提訴「全面賛成」

 被爆8年後の1953年3月。大阪の弁護士の岡本尚一さんは原爆被害への損害賠償請求訴訟の構想を伝えるため広島市を訪れた。市内では前の年に「原爆被害者の会」が結成され、会員約300人を擁していた。

世論高められる

 岡本さんから説明を聞いたのは、同会事務局の川手健さん(60年に29歳で死去)たち。原爆投下を国際法違反と訴え、その賠償を米国に求める訴訟は「原爆禁止」の世論を高められると歓迎した。提訴に「全面的に賛成」と会報で広く伝えた。

 賛成の根底に米国への怒りがあった。会員たちの被爆体験を伝える手記集「原爆に生きて」(53年刊)が、ありありと伝えている。執筆者の一人の「牧かよ子」さんは、学徒動員先だった市中心部の電話局で被爆して顔に大けがを負い、左目を失った。妹、恩師、友人たちも命を奪われた。

 「何故にこうも罪のない人々を苦しめねばならなかったのだろうか。いくら戦とはいえ、こんなひどい仕打ちをしたアメリカが憎らしい」

 実は「牧」さんは、15歳で被爆した寺前妙子さん(93)=安佐南区=のペンネームだ。「本名を出すのが恥ずかしくて…」と明かす。「今でも毎朝、鏡で顔を見ると、思います。『米国のためにこういう姿になったんだ』と」

寂しさ紛らわす

 同じ手記は、「眼鏡をかけて街を歩いているといやな事をいったり好奇な目で眺めたりする人がいる」ともつづる。国の被爆者援護も、まだなかった。苦しい日々を送る中、会を知った。同じ会員に胸の内を話すと、寂しさが紛らわされた。

 訴訟を巡る岡本さんとの窓口を務めた川手さんは、寺前さんと親しかった。「原爆で傷ついた人たちにやさしく、心強い方でした」。川手さんは同書の編集にも携わり、手記も寄せた。訴訟への思いを「再びこの様な戦禍を繰返させない様にするため」と記した。

 岡本さんや原爆被害者の会の会員たちは54年1月、提訴に向けた「原爆損害求償同盟」を結成。訴えの方向性を確認し合った。相手は、米政府と原爆投下時の大統領トルーマン氏ら。傷害の程度や犠牲者の人数に応じた金銭代償を求め、米国の裁判所に提訴する―。

 発起人代表の岡本さんは取材に「米国の良心的な裁判官もわれわれの訴えには賛意するものと確信している」(54年1月9日付中国新聞)と語った。米国の法律家たちの正義感を信じていた。

 だが、日本政府の受け止めは違った。岡本さんたちの動きに、水面下で目を光らせ始める。

原爆被害者の会
 1956年5月の広島県被団協の結成に先立つ52年8月に広島市で結成された初期の被爆者組織。原爆被害者が団結して治療や生活の支援・要望活動や、平和運動を進めることを目的としていた。結成時の幹事は、背中のケロイドをさらして原爆のむごさを訴えた被爆者の吉川清さん、被爆詩人の峠三吉さんたち5人。

(2024年4月25日朝刊掲載)

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