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被服支廠 服作り講習の営み 被爆の技官2人が保管 軍と市民の関わり活写

 国の重要文化財(重文)に1月に指定された被爆建物「旧陸軍被服支廠(ししょう)」(広島市南区)で、1932年にあった子ども服作りの講習会を撮影した写真3枚が残っている。被写体となり、後に被爆した技官2人がそれぞれ保管してきた。働きぶりをしのび、軍の施設と市民との関わりも伝える貴重な記録だ。(山下美波)

 3枚のうち、壇上で指導する被服技官の田中政市さん(80年に83歳で死去)を真正面から捉えた講習風景は、孫の田場康己さん(71)=広島県海田町=がアルバムから見つけた。田中さんは全国の講習会に赴いていたといい、「女子通学服型入図ノ一例」などと記された型紙の見本と、子ども服を並べたカットもある。

 田中さんは原爆投下の数日後に疎開先から広島市内に入ったとみられる。市職員となった戦後も自宅にカーキ色の糸が多く残り、服を自作していたという。「軍の組織で厳しいイメージがあるが、市民の講習会も開いていたと知ってほしい」と田場さん。アルバムのデータを2021年に原爆資料館(中区)に寄贈し、24年2月まであった新着資料展で紹介された。

 もう1枚は、技官の海谷真澄さん(86年に90歳で死去)の次男の浩さん(93)=東広島市=が20年に市民団体「旧被服支廠の保全を願う懇談会」にデータを寄せた。海谷さんが壁際から女性たちの様子を見守り、田中さんも写る。

 浩さんによると、海谷さんは難聴を患いながら軍服を製作していた。被服支廠で被爆。一家6人のうち、旧制修道中の助手として建物疎開の監督に出ていた長男義博さん=当時(18)=を失った。戦後は今の南区旭にあった自宅で洋服を仕立てて生計を立て、毎年8月6日の慰霊を欠かさなかったという。

 浩さんは被服支廠にあった歯科に通っていた。「世界で戦争が絶えない中、物言わぬ証人として保存を」と願う。

 懇談会幹事の菊楽忍さんによると、講習会場は内部の構造から本部や庶務があった棟の2階とみられる。今の広島県立広島工業高(南区)の玄関付近にあり戦後に取り壊された。写真はピントが合い、プロの撮影とみて「被服支廠内部をプロが撮るのは珍しい。当時は洋裁が普及しつつあり、子ども服の作り方を習いたい人が多かっただろう」と推察した。

旧陸軍被服支廠(ししょう)
 旧陸軍の軍服や軍靴を作っていた施設。1914年の完成で爆心地の南東2・7キロにあり、原爆投下後に臨時救護所となった。戦後は企業の倉庫や広島大の学生寮として使われた。13棟のうち4棟がL字形に残り、広島県が1~3号棟、国が4号棟を所有し、2026年度までに耐震化する。

(2024年4月26日朝刊掲載)

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