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連載・特集

ヒロシマの空白 未完の裁き <8> シモダ・ケース

家族12人失った原告も

 被害者5人が原爆投下を国際法違反と訴え、米国への賠償請求権を放棄した日本政府に補償を求めた「原爆裁判」。海外では「シモダ・ケース」の呼称で知られている。1955年4月、東京地裁に出された訴状の原告の1人目に記された下田隆一さん(64年に65歳で死去)に由来する。

遺骨見つからず

 証言記録などの資料は少ないが、下田さんが米ハワイ州の親族を訪ねた際、邦字紙ハワイ・タイムス(62年3月22日付)に詳しい被爆体験を語っている。

 1898年、ハワイの移民家庭に生まれた。砂糖耕地で働いた後、23歳で両親の郷里の広島へ。結婚して8人の子どもに恵まれ、中広町(現西区)に住んでいた。

 45年8月6日は家のすぐ外に出ていた。当時47歳。「パーッと空に光りが出た。すると殆(ほとん)ど同時に私は頭上にかざしていた右の腕が焼けるような熱さを感じました」。崩れた家の中から叫ぶ妻を助けた。

 だが、外出中の子ども5人は、捜しても遺骨すら見つからなかった。

 三男清さん=当時(12)=は下田さんが友人から借りていた大八車を返しに出かけ、次女ユリ子さん=同(10)、三女和江さん=同(7)、四女利子さん=同(4)=も「乗って行きたい」と大八車に乗っていた。長女レイ子さん=同(16)=は、勤めに出たまま帰らなかった。

「職業つけない」

 原爆裁判の訴状には、ハワイの姉の仕送りが頼りになっていた下田さんの窮状も記された。「右腹部から左背部にわたってもケロイドあり毎年春暖の節には化膿(かのう)し又腎臓及肝臓障碍(しょうがい)があって現在全く職業につくことができない」

 原爆で弟一家7人も全滅した。家の仏壇に合わせて12人の位牌(いはい)をまつり、こう願いながら生きていた。「世界のどこの人でも私たちが受けた苦しみを受けることのないよう」(同記事)―。

 下田さんは、広島市の「原爆被害者の会」を通じて原告に加わった。会の関係では、市内に住む多田マキさん(85年に78歳で死去)も参加。爆心地から2キロ余りで大やけどを負い、肩や腕にケロイドが残った。市の失業対策事業の土木作業で生活費を賄いながら子ども3人を育てていた。

 残る原告3人は、東京1人、大阪1人、兵庫1人。東京の浜部寿次さんは長崎への原爆投下で妻と娘4人を失っていた。

 「高き法の探究と原爆の本質に対する御審理を」―。そう結ばれた訴状が出されてから約半年後。被告の国は真っ向から争う答弁書を出した。

(2024年4月30日朝刊掲載)

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