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連載・特集

ヒロシマの空白 未完の裁き <7> 訴えの先

日本に損害賠償求める

 1954年の半ば、弁護士の岡本尚一さんは壁にぶつかっていた。原爆投下を国際法違反と訴えて米国に損害賠償を求める訴訟に、人権の擁護に熱心とされる米国人からも否定的な答えが返っていた。日米関係に有害。法的な根拠がない―。

責任 仲間と研究

 岡本さんは被害者の人権の観点から「無効であるべきだ」と説いていたが、52年発効のサンフランシスコ平和条約は戦争から生じた米国に対する日本の賠償請求権の放棄を定めていた。受け入れた日本政府の被害者への補償責任について、仲間と研究を進めた。

 仲間は、まだ30代前半だった松井康浩さん(2008年に85歳で死去)。東京で弁護士になって3年目の53年、構想を知り協力を申し出た。

 今の三原市の佐木島出身。進学費用を賄えず、14歳で大阪に出て工具店で働きながら夜間学校に通った。その後、弁護士事務所に仕事を得て夜に勉強を続けた。

 43年、苦学の末に関西大に進んだが、すぐに学徒出陣で広島の陸軍部隊に配属。終戦は中国で迎えた。広島市にいた弟は原爆でけがをして、親族も犠牲になった。松井さんも復員途中に広島の被害状況を見た。

 著書「戦争と国際法」(68年)では、私たちの日常生活では、例えば盗みをすると罰せられると記し、原爆投下についてこう問いかけている。

 「大規模な残虐行為が犯罪として処断されないですまされるであろうか。そのようなことがあって、地獄の責め苦にあった人、現にあっている人が救われるであろうか」

被害者救済狙う

 松井さんと岡本さんは研究の末、原爆投下は国際法に違反するとして、米国への賠償請求権を放棄した日本政府を相手に、損害賠償を求める訴訟を日本の裁判所に起こすことができると判断。54年3月の米ビキニ水爆実験による第五福竜丸の被曝(ひばく)をきっかけに全国的に広がる原水爆禁止運動に背中を押され、提訴の準備を進めた。原水爆禁止と被害者救済につなげるのが目的だった。

 訴状は岡本さんが書いた。皆殺しを意味する鏖殺(おうさつ)という言葉も用いて広島、長崎への原爆投下の違法性を強調。請求権を放棄した国に原告1人20万~30万円の賠償を求めた。

 「爆風熱線による広域破壊力と、より広域な放射線による人体に対する特殊加害影響力による残虐性とを認識すれば、原子爆弾の投下は人類に対する鏖殺行為」(訴状)

 訴状は55年4月、東京地裁と大阪地裁に提出。被害者計5人が原告に名を連ね、後に国際法の歴史にその名が刻まれる「シモダ」さんもいた。

(2024年4月29日朝刊掲載)

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