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連載・特集

反核を世界へ 信念の旅路 広島・長崎平和巡礼60年 資料でたどる足跡

 60年前の1964年、米国人平和活動家の故バーバラ・レイノルズさんが提唱し、実現した「広島・長崎世界平和巡礼」。被爆者ら総勢約40人が核保有国など8カ国を75日間かけて巡り、被爆地の声を届けた。時は米ソ冷戦下、1ドルが360円もした時代のことである。壮大な計画はどう成し遂げられたのか。帰国後にレイノルズさんが広島に創設したワールド・フレンドシップ・センター(WFC)や関係者の元に残る資料からまずは大まかに足跡をたどる。(森田裕美)

8ヵ国で訴え 被爆者や市民 40人選考

 出発前年の63年6月、レイノルズさんは「『被爆者平和巡礼』の提議」を米国の平和活動家や団体に宛て、「平和巡礼」計画への協力を呼びかけた。「被爆者のメッセージがこうも強力なものであるとは誰もまえもって夢にも考えませんでした」。被爆者の訴えの「惹(ひ)きつける力」「重要性」「深さ」を「過小評価していたようです」とも続ける。

 これに先立つ62年、レイノルズさんは被爆者の故松原美代子さんら2人を伴い、米ソなどを巡っている。原爆被害に遭った当事者が直接反核を訴える活動に手応えを感じた半面、もっと事前に計画を練ってより大規模で効果的な活動を―との思いが強まったようだ。

 提唱を受け、被爆地ではすぐにメンバー選考や資金集めに当たる実行委員会(原田東岷委員長)が発足した。巡礼団の旅費など必要経費約10万ドルは当時のレートで約3600万円。大卒初任給が2万円程度だった時代に、今の10倍ぐらいの価値の金額を国内外での募金で賄う計画だ。

 WFCには、趣意書が残る。「核兵器による被爆の実相についての世界の無知」を問い、被爆者の「胸中に燃える世界の無理解への絶望的な憤りや現場証人としての平和への悲願」を結びつける行動こそが、この「巡礼」であると強調する。

 63年11月10日付本紙朝刊には「世界に被爆の惨状を 平和巡礼 選考要領決まる」との見出しが見える。記事によれば、広島・長崎の被爆者でどの国の核実験や核武装にも反対し、人間の立場から戦争撲滅と世界平和達成に熱意のある人▽それぞれの専門分野や生活体験を通じて米ソの識者らとの意見交換や訴えができる人―が条件だった。

 64年1月17日、広島からの参加者15人がまず発表された。記事によれば74人の応募から選ばれたという。その中には当時廿日市高教諭だった森下弘さん(93)=佐伯区、主婦で農業の阿部静子さん(97)=南区=もいた。2人は今も「サンカ(参加)パス」と知らせる電報を保管している。

 メンバーにはほかに、62年に「巡礼」した松原さん、広島女学院長時代に被爆した神学者の松本卓夫さん、広島折鶴(おりづる)の会世話人の河本時恵さんら多様な背景を持つ被爆者が選ばれた。広島女学院大教授で物理学者の庄野直美さんら専門家、中国新聞記者も同行。長崎の被爆者と国際基督教大の学生通訳も含め総勢約40人の巡礼団となった。

資金難・冷戦時代の緊張 市民が支え 精神を今に

 巡礼団を報じる新聞記事や写真で、しばしば目にする横断幕がある。「広島・長崎・第五福竜丸の声を世界に」の手描き文字が見える。平和記念公園の「原爆の子の像」建立や原爆ドームの保存運動を展開した「広島折鶴の会」の子どもたちが作り、巡礼団に託した。原爆後障害などで亡くなった広島・長崎の被爆者や米国の核実験で犠牲になった第五福竜丸の無線長久保山愛吉さんら約120人の写真を張り、完成させたという。同会はカンパ集めにも協力した。

 40人が世界を巡る壮大な計画には、多額の費用が要る。当時の新聞には女性団体による募金活動や、巡礼団に託そうと被爆の実情を伝える冊子を作成したり被爆者の手記を英訳したりする様子が報じられている。広島市も被爆資料の貸し出しで協力した。出発を控えた4月13日付本紙は「平和巡礼 私たちはこう訴える」と題した座談会に1ページを割き、当時の浜井信三市長も寄稿。被爆地を挙げての取り組みだったといえよう。

 多くのメンバーにとって「巡礼」は初めての海外旅行だった。広島をたち、翌早朝に小田原へ到着すると、20日まで箱根で合宿、事前勉強会が持たれた。阿部さんが当時書き残した「旅日記」には、各国の実情について駐日大使から説明を受けたほか、有識者を講師に原爆についての医学的見地からの解説や被爆者の心得について説明を受けたことが記されている。

 厳しい冷戦時代。当時の報道や残された記録からは、米国ではとりわけ共産主義・社会主義への警戒が強かったことがうかがえる。メンバーの選考にあたり現地受け入れ団体からも「左右のいかんを問わず、政治的色彩を排除してほしいとの条件つきだった」と実行委員長の原田さんが、本紙で明かしている。

 そうした影響だろうか。庄野さんのビザ発給が保留となり、一緒に渡米できないハプニングも。庄野さんを除く一行は21日にハワイ入り。その後3班に分かれ、米本土やカナダへ。東西ドイツ、ベルギー、ソ連などを巡った。庄野さんは途中米国で合流した。

 現地にはそれぞれ受け入れ団体があったものの、原爆投下国である米国の巡礼は一筋縄にはいかなかったようだ。右翼に絡まれたり被爆資料を展示したトレーラーの窓を壊されたりする場面もあったという。

 阿部さんや森下さんたちの班はミズーリ州のトルーマン図書館で原爆投下時の米大統領、トルーマン氏にも面会。だがわずか3分。トルーマン氏は「戦争を終結させるのが目的だった。それを使わなければ仕方なかった」と従来の見解を述べ、団員からはため息が漏れたという。

 巡礼団にとってもうひとつの障壁は資金だった。巡礼団は行く先々で寄付を呼びかけ、節約のため一般家庭や学生寮に泊めてもらうなど工夫を重ねた。善意の人々に助けられ、レイノルズさんも私財を投じたが、それでも厳しかった。

 そのため米本土から欧州やソ連に渡るのは全員でなく、代表を送ってはどうかという声も出たという。しかしレイノルズさんは「全員で」と高い航空券を清算し、安価な陸路でモスクワに入る道を選んだ。帰路はナホトカから船。7月4日、横浜に戻った。

 翌65年、レイノルズさんは原田氏とWFCを広島に創設。多様なバックグラウンドを持つ人が世界中から集まって語り合える、広島と世界の架け橋のような場に―との思いは今に引き継がれる。

 WFCは今月、広島市中区で記念のパネル展を開き、写真や資料で当時の草の根の息遣いを伝えた。立花志瑞雄理事長は「被爆地市民にできることは何か考える機会にしたい」と力を込める。名誉理事長でもある森下さんも会場を訪れ「冷戦期も大変だったが、今の世界情勢はより厳しくなっている。だからこそ当時を知ってもらい、私たちが声を上げていかなくては」と訴えた。

(2024年4月29日朝刊掲載)

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