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連載・特集

ヒロシマの空白 未完の裁き <6> 投下国の反応

米人権派も賛同乏しく

 1953年6月16日、都内の懇談会会場。大阪から駆けつけた弁護士の岡本尚一さんはメモを手に質問機会をうかがっていた。相手は主賓のエレノア・ルーズベルトさん(62年死去)。今も「人権の擁護者」として知られる米国の著名人だ。

 夫フランクリン・ルーズベルト元大統領(45年死去)は原爆開発を命じた張本人。一方、エレノアさんは米国の国連代表を務めていた48年、国連で「世界人権宣言」の採択に努めた。岡本さんは、人権の尊重をうたうこの宣言が原爆被害者が米国に損害賠償を求める根拠になると考えていた。

 エレノアさんは日米交流の一環で53年5月に来日し、6月上旬に広島市を訪問。原爆で顔に傷を負った女性や親を失った子どもたちと面会した。

 懇談会は人権擁護を掲げる自由人権協会などが主催。岡本さんは協会の会員だった。

 広島を見て、人権侵害と思ったか。原爆被害への損害賠償責任への意見は―。協会機関紙などによれば、エレノアさんは岡本さんからこう聞かれると、被害者に「お気の毒」と述べ、続けた。

強い原爆肯定論

 「原爆使用に関しては国際法廷で一度もまだ問題になっていません」。戦争中には日本も原爆開発の研究をしていたと指摘。米国に責任はないととれる言葉を並べた。

 先に訪れた広島市では「戦争を一刻も早く終結させて破壊を打ち切りたいという願いの結果がこうなったと思う」と話していた。今なお米国に根強い肯定論の立場から原爆投下を見ていた。

 その後も、岡本さんは人権擁護に関心を持つ米国人に訴訟への協力を手紙で依頼した。だが、力を得る壁は高かった。

 54年初め、協力者を介して手紙を送ったのは、国際人権連盟議長のロジャー・ボールドウィンさん。第2次大戦中、米国の日系米国人の強制収容に反対した人物だ。しかし、法律的根拠がなく、日米関係にも有害だとして協力を拒まれた。

高額な弁護費用

 日系米国人関係の訴訟を多く担当していたウィリン弁護士にも依頼。54年5月、「興味がある」と前向きな返事があった。その後、最低でも2万5千ドル(当時900万円)の弁護費用がかかるという手紙が届いた。高卒公務員の初任給が約6千円の時代。あまりにも高額だった。

 岡本さんは日本人の弁護士は「無料奉仕」、米国人も「正義感からの参加」を掲げていた。米国からの反応にショックを隠せなかったという。それでも、広島出身の弁護士と別の道を探った。

世界人権宣言
 人権の尊重における「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準」として、1948年に国連総会で採択。前文と30条からなる。前文ですべての人間の尊厳と平等の承認が世界の自由、正義と平和の基礎だと掲げ、条文には生命・身体の安全の権利、表現の自由、社会保障を受ける権利などを明記している。

(2024年4月28日朝刊掲載)

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