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連載・特集

緑地帯 平野薫 ものの声⑦

 今、私は広島県安芸太田町の戸河内の空き家を借りて住んでいる。田舎の広い家は、美術作家にはいいスタジオになる。庭には小さな畑もある。この辺りにはあちこちに田んぼに水をひくための井手が走っていて、いつも水の音が聞こえている。私の畑にも、その水をじょうろでくんでまく。近くの川にはクレソンや、春になれば土手にツクシやコゴミが生えてくる。

 この町にきたころ、黒い雨のことで戦っているという当時92歳の方に偶然お会いした。戦後70年あまり、まだ戦っている方がいることに驚いた。その後、黒い雨のニュースをよく目にするようになった。しかしあのお年寄りは、裁判の勝訴の前に亡くなってしまったようだ。

 黒い雨が降ったとされる境界に、地図の上に引かれる線。だけど空はつながっていて、降った雨も川や土をつたわり流れてゆく。そもそも人だってうごいている。その見えない境界線に、いったいどれほどの意味があるのだろう。

 2022年に広島市現代美術館の休館中のプロジェクトに参加した。会場は、平和大通り沿いにある一面大きなガラス張りの、そのガラスに今の広島の風景を反射しているヱビデンギャラリーだ。広島県内のバス、学校、美術館などの公共空間に忘れられた黒い傘を素材とした作品を展示した。糸にほどかれた忘れものの黒い傘に、今の広島の風景と、黒い雨、そして忘れられゆく記憶や放射能などの見えないものを重ねたかった。(美術作家=広島県安芸太田町)

(2024年5月2日朝刊掲載)

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