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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説委員 田原直樹 ハンセン病元患者の絵

自分の差別意識 画面に問う

 長島愛生園(瀬戸内市)から同じ国立ハンセン病療養所である多磨全生園(ぜんしょうえん)(東京都東村山市)へ、ある入所者が55年前に転園した。

 長浜清さん(1928年ごろ~71年)という。20歳前後で長島愛生園に入所し、絵や詩を創作して園内誌「愛生」に発表していた。転園理由は絵を学ぶため。多磨全生園は絵画活動が盛んとの評判を耳にしたのだろう。

 隔離政策、強制収容という過酷な運命と環境の中で、絵に希望を見いだしたに違いない。ところが健康状態が悪化して43歳で亡くなった。絵を一枚も描くことなく。

 遺稿詩集「過ぎたる幻影」は長浜さんの死を悼み、療養所仲間が編んだ。ガリ版作成と製本は同室だった人が担当した。

 その詩集を開き、長浜さんが療養所内で抱いた絶望と、絵にかける情熱を知った。

 それでどうして/自分の生命をカンバスに傾注できるのだ/(中略)病人という菅笠(すげがさ)を取り捨てよ/大地に/しっかりと体躯(たいく)を立脚させるのだ(詩「自責」から)

 時に絶望し、絵筆を握らぬことのある自分を𠮟り、鼓舞している。何という気迫だろうか。絵に向かう覚悟が伝わる。

 一方、「喪失」という一編は絵画表現の喜びを光に例え、希望をうたう。その一節にはこうある。絵を描くことが/ぼくのすべてだ

 ハンセン病と診断され、社会から隔離された人たち。絵画に思いをぶつけ、安らぎを求め、願いを託した人も大勢いた。

 多磨全生園に隣接する国立ハンセン病資料館で9月まで開かれている企画展「絵ごころでつながる―多磨全生園絵画の100年」を見た。約100年前の1923年、園内初の入所者の作品展が催された。その後の絵画活動の歩みと意義を、企画展は紹介する。

 「第壱回絵画会」で入所者は何をモチーフに、どう表現したのか―。作者や作品、写真など記録は何一つ残っていない。しかし鑑賞した入所者が園内誌に書き残す。「全患者の向上をあらはしたと共に将来の何物かの暗示であらねばならぬ」と。差別や偏見で抑圧された人々の叫びとエネルギーを画面に見て、社会の変化を要求する。

 絵を愛する心が入所者同士を結び付けた。さらに職員ともつながる。戦時中の43年には絵画サークル「絵の会」結成。入所者を診る医師の呼びかけだった。

 戦後、外部の美術団体の画家も指導に入り、サークル活動は本格化。団体展に入選する人が相次いだ。一方で社会復帰する人も。集団の活動は衰退しても個人で精力的に活動した。

 療養所の描き手たちと作品を企画展で知ることができる。

 天才と評された瀬羅佐司馬(せらさじま)さん、園内のさまざまな場所をスケッチした氷上恵介さん、故郷を思って富士の絵も描いた望月章(あきら)さん、団体展に多数入選した国吉信(しん)さん、園内の友人に絵はがきを送った鈴村洋子さん…。

 入所者の境遇を直接表現した作品は多くないが、痛みや悲しみをたたえた絵は多い。

 ハンセン病療養所において絵を描くことが入所者と職員、さらに社会をつないだ。詩歌などを作る活動も同様だろう。

 だが今、病気や元患者と家族に対する認識はどうか。厚生労働省が昨年12月、初めて全国意識調査を実施。その結果、偏見や差別が「現在、世の中にあると思う」と、4割が答えた。

 遺伝するという誤解を約7人に1人が持っていた。元患者らとの関わりに抵抗を感じる偏見も「食事をする」で12%、「手をつなぐなど体に触れる」で約19%あった。人権教育と啓発の不十分さが差別根絶を阻んでいる―と調査報告書は指摘する。

 ハンセン病について私自身もこれまで深く理解しようとしてこなかった。その事実こそが、自分の奥底に差別意識があることを示すのではないか。今回、元患者の絵が発する叫びに触れて、自らを恥じた。

 「残された絵だけでなく、証言などからハンセン病を巡る歴史や政策を見直し、過去や今の社会を考えてほしい」。資料館学芸員の吉國元(よしくにもと)さんはそう語る。

 展示の終わりに長浜さんの詩集があった。作品を残せなかった大勢の人を思う。今から私にできることは何だろうか。

(2024年5月2日朝刊掲載)

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