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連載・特集

呉 坂のまち 両城・川原石編 <中> 洋風建築 旧海軍の名残

 両城の坂のまちにはハイカラなれんが塀のある家が多い。2丁目のつづら折りの坂道、通称「七曲がり」の途中にも十字穴が特徴的な赤れんが塀の家があった。

 約5メートルの石垣の上に整然とれんがが積まれ、家を囲むように美しく湾曲している。意匠に見とれていると、家主の古田陽久さん(72)が玄関から顔を出した。「すごい建築技術でしょう。旧呉海軍工廠(こうしょう)の優れた石工の手で造られたようです」

空襲免れ姿残す

 赤れんがは旧海軍の施設に使われたことで人気となり、民家にも普及。空襲の被害が少なかった両城では、当時の姿を残す家が多いそうだ。

 古田さんによると、塀と家は1930(昭和5)年ごろに建てられ、料亭の経営者が住んでいた。れんがは旧安芸津町(東広島市)で製造され、原料の赤土は竹原産。裕福な家庭では英国製を使っていたという。

 53年に古田さんの父親が買い取った。「子どもながらにれんが塀は自慢でね。丈夫で2001年の芸予地震でも崩れなかった」と言う。

 ところが取材当日に心配なことが起きた。4月17日深夜、呉市で震度4を観測する地震があり、隣家のれんが塀が倒壊。古田さんは一晩中眠れなかったという。「貴重なものだから、これ以上、地震が起きないことを願うばかり」

 旧海軍の名残は川原石地区にも。両城から西に約1キロ。JR川原石駅近くの港町小を抜けると、市内で初の洋風建築「静観亭」がある。

 市文化財保護委員の松下宏さん(88)によると、薄茶色の煙突と広い庭がある平屋は、呉の大商家だった澤原家の5代目当主が明治中期に建てた。呉鎮守府に寄贈し、初代参謀長の佐藤鎮雄が住んでいた。当時は呉鎮守府司令長官官舎と並ぶモダン建築だったという。その後も海軍高官の居宅として使われた。今は民家になっている。

学校に防空壕跡

 戦争の痕跡も残る。港町小の円形校舎が立つ石垣の前を通ると、セメントでふさがれた二つの防空壕(ごう)跡を発見した。そういえば両城小の西門近くにも海軍の資材倉庫として掘られた壕があった。市の説明板によると、地域では10~15メートルの横穴式防空壕がいくつも造られ、空襲から人々を守ったという。

 最後にずっと気になっていた場所へ。呉署海岸交番(海岸1丁目)の横にそびえる通称「有崎の鼻」。高さ約20メートルの崖の上に民家がある。珍しい場所に家があるなと見上げていると、庭にいた住人の女性と話ができた。

 かつてはこの辺りまで海辺だったそうだ。大正期に夫の祖父が移り住み、重厚な日本家屋を建てたという。敷地内には昭和初期の2階建てもあり、洋風の円窓と黄色いタイルが印象的。表面に線状の凹凸があるスクラッチタイルで、れんがからタイルに変わる過渡期の建材だそうだ。歴史が息づく「街角遺産」は、地域の宝と言えるだろう。(栾暁雨、開沼位晏)

(2024年5月5日朝刊掲載)

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