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連載・特集

ヒロシマの空白 未完の裁き <12> 判決

核使用は「違法」 初判断

 1963年12月7日。東京地裁の傍聴席に多くの記者が詰めかけた。注目の「原爆裁判」判決を言い渡すのは、古関敏正裁判長。同じ法廷にいた裁判官の高桑昭さん(87)=東京=は「度胸が要った」と振り返る。2人と合議で判決をまとめた三淵嘉子さんは東京家裁へ異動しており、立ち会えなかった。

 午前10時開廷。古関裁判長は、判決の結論が書かれた主文を後回しにし、判決理由から読み始めた。長男博章さん(73)=千葉県柏市=は父から当時の話を聞いたことはないが、こう話す。「父は正義感が強く、子供の頃、こう強く言われた記憶があります。『絶対にうそはつくな』と」

 古関裁判長は二つの理由を挙げて、広島、長崎への原爆投下を国際法違反と断じた。一つが非軍事目標・非戦闘員にも被害が及んだ無差別性。もう一つが、戦後も続く放射線の影響が「不必要な苦痛を与える兵器」に当たる残虐性だった。現在も核使用の違法性の二大原則として知られる判断がこの時、示された。

国に救済策迫る

 一方で最後の主文の言い渡しでは賠償請求を棄却した。個人は国と違って国際法上の賠償請求権が一般的に認められていないなどとした。国際法学者の鑑定に基づいていたが、違法な攻撃の被害者や犠牲者の遺族にとっては不条理だった。

 ただ、判決では異例の所感が述べられた。被爆者の無料健康診断などを定めた57年施行の旧原爆医療法は不十分だとし、国に「十分な救済策を執るべきことは多言を要しない」と迫った。戦争の惨禍を防ぐのが「人類共通の希望」とも述べた。

 朗読は約30分。当時の新聞記事によれば、法廷でメモを取る原告側の弁護士の松井康浩さんは判決を聞きながら顔を紅潮させた。古関さんの退廷後、傍聴席の報道陣がざわついた。

 複数紙が夕刊1面トップで報道。原告敗訴だったが、世界初の「原爆投下は国際法違反」の司法判断を大きく扱った。

原告に喜びの声

 松井さんもその意義をかみしめていた。棄却は残念としつつも「平和を希求する世界の人々に大きな勇気を与えた」と判決を評価する手紙を書いて関係者に報告した。

 提訴から判決までに約8年半を要した。原告5人のうち1人が亡くなっていた。原告だった広島市の被爆者の下田隆一さんは「国際法違反」への喜びを手紙に書き、松井さんに送った。

 「被爆者及び死亡者達も草場の蔭(かげ)で喜んでいてくれる事と思ひます」

 被爆者団体などにも棄却は残念としながらも評価する声が広がった。国会の論戦にも波及した。

(2024年5月4日朝刊掲載)

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