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連載・特集

ヒロシマの空白 未完の裁き <11> 3人の裁判官

違法性判断 避けぬ意思

 「原爆裁判」は提訴から8年近くがたった1963年3月、結審した。東京地裁の裁判長の古関敏正さん(2009年に96歳で死去)、裁判官の三淵嘉子さん(84年に69歳で死去)と高桑昭さん(87)=東京=の3人が合議をし、判決に書く内容を決めていった。

 高桑さんは、判決が持つ社会的、政治的影響の重みを感じていた。「民事裁判でも国家機関の判断。まして、戦勝国米国の原爆投下の国際法上の是非ですから要するに大事件です。強い気持ちで臨む必要があると思いました」と振り返る。

「確信があった」

 原告は、原爆投下は国際法に違反するとして米国への請求権を放棄した国に損害賠償を求めていた。形は損害賠償を求める訴訟であり、原爆投下が違法か否かは判断を示さず、請求への答えのみを出す選択肢もあった。

 だが、古関さんの意思は固かった。後に「原告は国際法違反かどうかの判断を求めている。裁判官としてはそれを避けるべきではないと考えた」(67年12月29日付中国新聞)と話している。

 高桑さんによれば、国際法学者による鑑定を経て、広島、長崎への原爆投下が国際法違反と判断できるのは3人の間で「確信があった」という。高桑さんが判決草稿を書き、ほかの2人が読んで修正を加えた。

所感も盛り込む

 女性法曹の先駆者でNHK連続テレビ小説「虎に翼」の主人公のモデルでもある三淵さんは、召集された夫を戦病死で亡くしていた。判決には国が始めた戦争や被害者救済策に対する3人の所感も盛り込まれていく。

 三淵さんは生前の手記にこう記している。「裁判官は自分の良心に従って正しいと信じる裁判を下すのであって、法律の外何ものにも強制されることはありません」

 一方、原告側の弁護士の松井康浩さんは、期待と不安が入り交じっていた。結審後、関係者に手紙でこう伝えた。「原爆使用が国際法に違反するという点は、立証できたのではないかと思っており、そうであれば、岡本先生の遺志にもそえるのではないかと存じていますが楽観を許しません」

 裁判を提唱した弁護士の岡本尚一さんが提訴の3年後に死去した後、書面提出や口頭弁論を一手に担ってきた。広島で被爆した弟の悲惨な体験にも駆り立てられていた。

 原爆投下は国際法違反という世界初の司法判断を核兵器の全面禁止のてこに―。岡本さんや原告の被害者たちの思いに応える判決が出るかどうかの答えが迫っていた。

 判決の言い渡しは63年12月7日だった。

(2024年5月3日朝刊掲載)

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