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連載・特集

[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] 広島県被団協理事長 佐久間邦彦さん(79) 元教師 楠忠之

歴史に向き合う責務示す

 広島県被団協理事長に就いて9年。連日自転車で広島市中心部の事務所に通い、今なお健康や暮らしへ不安を抱える被爆者の相談に乗る。さまざまな集会に顔を出し核兵器廃絶に向け汗を流す。

 「楠先生に出会わなかったらこんな生活を送っていなかったかもしれません」。被爆地で平和運動や平和教育に心血を注いだ楠忠之さんの名を挙げる。一昨年6月、98歳で逝った恩師である。

 1957年入学した庚午中(西区)で、楠さんは社会の教師。平和と憲法の重要性を熱く説く姿が印象に残る。2年時は担任に。「内気だった私に『失敗していいから動いてみなさい』と行動する大切さを教えてくれた」。在りし日をしのぶ。

 「教え子を戦場に送らない」との強い意志で教壇に立っていた楠さん。背景には自身の苦い戦争体験があったようだ。広島高等師範学校(現広島大)を繰り上げ卒業し、志願して海軍へ。中国旅順で敗戦を迎え、旧ソ連による抑留も体験した。

 復員した47年、主権在民や戦争放棄をうたう新しい憲法に衝撃を受け、戦前戦中の教育を猛省。すでに私立校で理科教師をしていたが、広島文理科大(同)へ進む。教育を問い直そうと、少年少女の手記「原爆の子」を編んだ長田新氏の下で学び直した。

 公立中教師となってからは平和教育に注力。多くの市民が協力し被爆の惨状を描いた映画「ひろしま」(53年)には生徒有志とエキストラ出演した。仲間と平和教材を作り平和運動に奔走した。

 「先生の姿勢は、反核平和運動は被爆者だけでなく、全ての人が向き合うべきだと示しているようだった」。当事者であることに背を向けていた自分を省みさせた。

 己斐(現西区)の自宅で閃光(せんこう)を浴びたのは生後9カ月の時だ。自覚や記憶はない。「被爆者であることを忘れたい」。60年代半ばに大学を中退し、逃げるように東京へ出た。

 厳しい冷戦下。反核運動をはじめ社会運動が盛り上がっていた時代でもあった。67年のある日、知人に誘われて参加した静岡での反核集会でばったり楠さんと再会した。「元気でやれや」と声をかけてくれた恩師が、変わらず意思を行動で示している姿に心打たれた。

 翌年帰郷。古里で会社勤めしながら、遠くから恩師の動向を追った。楠さんは県議を2期、県原水協代表理事などを歴任し、原爆遺跡保存運動懇談会の副座長などとして、歳月とともに消えゆく被爆建物の保存運動にも励んでいた。「過去を問い、未来へのまなざしを忘れない」。そんな背中を見続けてきた。

 「私も責務を果たさねば」。勤めていた会社を退職後、相談員として被爆者の体験に耳を傾けるようになった。高齢で動けない先輩たちに代わり国内外での会議にも出かけ被爆地の声を伝える。

 運動に携わるようになって「社会を変えていかなきゃな」という楠さんの言葉がよみがえるようになった。当時はピンとこなかったが、いま「ヒロシマの本質を見つめ、行動せよということだったと思う」と解釈する。「敗戦で日本社会はすっかり良くなったわけではなく、過去を引きずっている問題がたくさんある。だから歴史に学び現在を問わなくては」

 「和解」や「未来志向」という言葉で過去の責任がうやむやにされたり、広島市長が職員研修資料で憲法が否定した戦前の「教育勅語」を引用したり…。被爆地の今に目を光らせ、声を上げ続ける。(小林可奈)

さくま・くにひこ
 広島市生まれ。1964年広島工業大中退。東京で専門学校に学び、ホテル勤務を経て68年帰郷。2005年三菱重工業広島製作所を定年退職後、06年から広島県被団協被爆者相談所の相談員。故金子一士さんの後任として15年理事長に就いた。西区在住。

原爆遺跡保存運動懇談会
 戦後の復興や再開発で被爆の痕跡が残る建造物が姿を消す中、研究者や被爆者たち市民で1990年に結成。署名活動や被爆遺構を巡るフィールドワークを通し、平和記念公園のレストハウスや広島大旧理学部1号館などの保存に向けた取り組みを続ける。ヒロシマの歴史をたどるガイドブックや写真集も発行。

(2024年5月20日朝刊掲載)

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