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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 栗栖三さん―被爆 1ヵ月意識戻らず

栗栖三(くりすまさる)さん(85)=広島市中区

兄2人失う。喉頭がん患い語る決意

 栗栖三さん(85)は、被爆時(ひばくじ)にやけどを負い、約1カ月間意識不明になりました。2人の兄を失いました。約15年前には喉頭(こうとう)がんを患(わずら)い「原爆で2度も命を落としかけた」。その経験を経て今、「生かされた命を世界から戦争をなくすために少しでも役立てたい」との思いを強めています。

 1945年当時は6歳でした。両親、兄たちと5人暮らし。広島市吉島本町(現中区)の自宅が空き地を造って防火帯にする「建物疎開(たてものそかい)」の対象となり、立ち退いて近くに移り住んでいました。

 8月6日の朝、父親は広島市外の職場へ。山陽中(現広島山陽高、西区)4年の信彦(のぶひこ)さん=当時(15)=と、1年の照明(てるあき)さん=同(13)=は学徒動員で作業に出ていきました。母と、妊娠して帰省中の長姉は母屋にいました。

 栗栖さんが離(はな)れで1人遊んでいると、突然(とつぜん)閃光(せんこう)が飛び込(こ)んできました。頭髪(とうはつ)が「じりじりと焼けた感じ」がしたのは覚えていますが、直後に気を失いました。爆心地(ばくしんち)から約2キロでした。

 崩(くず)れた壁(かべ)とタンスに挟(はさ)まれていた栗栖さんを母親たちが助け出したと聞きました。顔はやけどで腫(は)れ上がったそうです。柳井市に住む伯父が駆(か)け付けて栗栖さんを連れ帰り、懸命(けんめい)の看病(かんびょう)で命をつないでくれました。

 約1カ月後に意識が回復し、年末までに広島へ戻(もど)りました。しかし、自宅跡(じたくあと)に建てたバラック(小屋)に兄2人はいませんでした。

 あの日、信彦さんは市中心部に動員されたとみられますが、今も行方は分かりません。照明さんは爆心地から近い雑魚場町(ざこばちょう)(現中区)で建物疎開の作業中に被爆。坂町の小屋浦(こやうら)国民学校(現小屋浦小)に運ばれたそうです。約1週間後、本人から「早く迎えにきて」と書かれたはがきが届(とど)き、母親が急いで向かいました。到着した時は既(すで)に遅く、2日前に亡(な)くなっていました。

 混乱の中で他の遺体(いたい)と一緒に火葬(かそう)されており、遺骨(いこつ)も手にできないまま。両親は生前、何も語ろうとしませんでした。兄たちのことは親戚(しんせき)から聞きました。「母と兄は、生きて会えると互(たが)いに思っていたはず。こんなにむごい事はありません」

 栗栖さんは広島大付属小中高を卒業し、東京の大学に進学。米ニューヨークの大学院で経営学を学びました。英語力を生かして68年から20年間自宅に英語学校を開き、経営に打ち込みました。被爆の記憶からは、距離(きょり)を置(お)いていました。

 しかし70歳の時、喉頭がんを発症。原爆症の認定を受けました。声帯を失ったため、専用の機械を顎(あご)の下に当てて声を出しています。一生、命を脅(おびや)かす放射線の怖(こわ)さを痛感(つうかん)し、79年前を思い出すようになりました。

 昨夏、広島山陽高を通じて依頼(いらい)され、英国のテレビ局の取材を受けました。体験を初めて人前で語り「日本からの平和のメッセージを世界は待っていると感じた」と言います。「今も核兵器はなくならず、戦争で苦しむ人たちが大勢いる」。被爆者として語ろうと決意するきっかけとなりました。

 「政治家たち一部の人に任せるのではなく、一人一人が命の問題として行動していかなくてはいけない」。機械から出す「声」には抑揚(よくよう)がない代わりに、身ぶり手ぶりを交えて切なる思いを訴(うった)えています。(新山京子)

私たち10代の感想

戦争の背景 考えていく

 小学校の平和学習で被爆体験を聴いたことと同じ話になるかも、と思っていました。しかし、栗栖さんは平和についての考えや、戦争をなくすため何をするべきだと思っているのかについても詳(くわ)しく語ってくれました。「戦争放棄(せんそうほうき)に反対する人はいない」と私も思います。戦争がなくならない背景(はいけい)や、なくすための行動を考えたいです。(中1小林菫(すみれ))

耐え抜く力 心に刺さる

 「生きているだけでありがたい」という言葉が印象に残りました。栗栖さんは被爆後は家族や親戚、がんになったときは病院の医師たちに命を助けてもらい、その体験を無駄(むだ)にしないよう、国内外に平和の大切さを訴える行動を起こしました。何があっても耐(た)え抜(ぬ)く力、そして平和を願う気持ちが私の心に刺(さ)さりました。(中2山下綾子)

 栗栖さんが「平和とは、地球上に戦争がないこと。戦争とは、人間の殺し合いである」とはっきり定義されていたことに共感しました。以前、学校の授業で「戦争・平和とは何か」というテーマで意見を出し合ったとき「喧嘩をしないこと、世界の人々が幸せになること」など、身近なことから世界規模のことまでさまざまな考え方があり、一つの意見にまとまらなかったことがありました。多様な考え方も大切ですが、栗栖さんのようにはっきり定義しなければ考えが一致せず、戦争のない世界への実現が難しいと感じました。他人から見て、自分の行動が曖昧とならず、意味のあるはっきりとしたものにしていきたいです。(高1山下裕子)

 栗栖さんが、原爆とがんの大手術という困難を乗り越えて伝えたいことの重大さと熱意が、表情として出なくても、平和の実現に向けて説明された具体的なプランを通して伝わってきました。しかし、そのプランにも大きな壁があり、どのように活動を広めるか、ということでした。「ここだけがどうすればいいのか分からない」と悔しそうに話したのが印象に残っています。この点は、私たち若者が立場を利用して行動しないと達成できないと思います。世界で戦争をしたいと思う人はいないのだから、平和を実現するための活動をすることは決して悪いことではないと話していました。その言葉を胸に、当事者としての自覚を持ち、勇気を持って積極的に行動をしなくてはならないと思いました。(中3川鍋岳)

 まだ幼い6歳の時に被爆したということに衝撃を受けました。被爆して記憶を失い、原爆で亡くなってしまった兄の顔も思い出せないということにとても驚き、悲しくなりました。「多くの人のおかげで今生きている」「生きているだけでありがたい」という言葉にとても胸を打たれました。とても辛い経験をされた栗栖さんのこの言葉を忘れずに過ごしていきたいと思いました。いろいろお話を聞かせてもらい、きっと経験した人だけにしか分からない気持ちがまだまだあると思いました。「戦争とは人間同士の殺し合い」という言葉を聞いて、「戦争」より、人間同士の殺し合いの方がひどく聞こえました。戦争は、殺し合いを丸くおさめた言葉だと思いました。平和については、願ってばかりではいけないという言葉しっかり受け止め、自分にできることを行動に移していきたいです。(中1相馬吏緒)

 私が栗栖さんの証言で心に残ったのは、「核兵器は廃絶しなければならないと言っているのに、他の兵器は世界でたくさん使われている」という言葉です。たしかに、核兵器は恐ろしいですが、他の兵器であっても、人を傷つけることは決して許されることではないはずです。さらに、栗栖さんは「政治家は活動する側、国民はそれを応援する側にある」とも話していました。私も日本は税を上げてまで防衛費を増額していることに反対です。私は未成年であるために選挙権がありませんが、将来成人してからは、戦争をなくしたいと思っている人に大切な一票を送りたいです。(中1森本希承)

 今回一番心に残ったのは、栗栖さんにとっての命、平和、戦争とはなにかというお話でした。命とは「かけがえのないもので、何にも比べられない一番大切なもの」。平和とは「地球上に戦争がないこと」。戦争とは「人間同士の命の取り合い」などの言葉に感動しました。なぜなら、これまで私は平和や命について自身で深く問いつめた経験がなかったからです。学校の授業で「命とは何か」と問われた時も「生きるのに必要な臓器」と答えていました。栗栖さんの言葉には説得力があり、取材後も私の頭の中は栗栖さんの言葉でいっぱいでした。この取材を機に、平和についての知識をより深め、友達に伝えていきたいです。将来は、世界に目を向け、栗栖さんの話を私が外国の人たちにも語れるようにし、戦争や紛争が多い世の中を少しでも変えていきたいと思います。(中1岡本龍之介)

(2024年5月27日朝刊掲載)

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