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旧陸軍が募集「船舶特幹」発足から80年 16歳で入隊 佐野さん語る

江田島の幸ノ浦で特攻訓練 1期生は多数戦死 「紙一重」

 「本土決戦」に備えて旧陸軍が少年たちを募集した船舶特別幹部候補生隊(船舶特幹)の発足から80年になる。彼らの多くが江田島市の幸ノ浦で四式連絡艇(マルレ)による特攻の訓練を受け、フィリピン、沖縄、九州などに送られた。「幸ノ浦、と聞いて覚悟を決めました」と振り返る岐阜県多治見市の元陶磁器卸商、佐野博厚さん(96)が取材に応じた。

 名古屋市の旧制愛知商業3年だった1943年12月に船舶特幹に志願。翌年4月の1期生に続き9月に2期生として入隊した。16歳だった。「もう学校の運動部も軍事教練と化した時代でした」

 兵舎は香川県小豆島にあり、課程を修了すると陸軍船舶司令部(通称暁部隊)の各隊の要員になる。佐野さんは小豆島で敵前上陸の訓練を受けた後、45年1月に鯛尾(広島県坂町)の船舶整備教育隊に転属。呉軍港への空襲を眼前で目撃した。

 5月には幸ノ浦の船舶練習部第10教育隊転属を命じられた。下士官が同乗した2人乗りのマルレに乗り組み、標的船に突き進む。勢い余って舟艇が故障し、こいで帰ったこともあった。

 その後、実戦部隊である海上挺進(ていしん)戦隊の37戦隊に配属され、行き先は知らされないまま東シナ海に面した熊本県天草下島へ。遺書も書いたが、マルレも兵舎もないままマルレを隠す洞窟を掘る。そして玉音放送。偽の放送だと叫ぶ隊員もいたが混乱はなく、佐野さんは鉄道や船を乗り継いで12日間かけて帰郷した。

 戦後は同志社経済専門学校(現同志社大商学部)に進み、家業を営む。この間、岐阜県土岐市教育長を務めた故小林健さんと知り合い、多治見の「戦争と平和展」で証言した。小林さんは、戦艦大和から呉鎮守府特別陸戦隊23大隊に転じた元海軍下士官。原爆投下後の広島へ救援に入り、戦友の被爆者健康手帳取得に尽力していた。

 佐野さんは「私だって戦場に送られてもおかしくない。紙一重です」と言う。1期生と2期生は同時に試験を受けたが、5カ月早く入隊した1期生の大多数がフィリピンや沖縄で戦死。広島へ救援に入って被爆した候補生もいれば、原爆の犠牲になった候補生もいる。佐野さんは生ある限り証言を続けたいと願う。

 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)で開催中の企画展「暁部隊 劫火(ごうか)ヘ向カヘリ」では、第10教育隊などから広島に入った元候補生たちの証言を映像で紹介し、実物大レプリカのマルレも公開している。(客員編集委員・佐田尾信作)

マルレ
 戦局打開のために旧陸軍が開発した水上特攻艇。「四式連絡艇」は秘匿名であり、連絡の「れ」を取って通称マルレ。全長5・6メートルのベニヤ板製の船体に自動車エンジンを搭載し、夜陰に乗じて敵艦に近づく。体当たりすると船尾の250キロ爆雷が落下する設計だった。旧海軍も特攻艇「震洋」を開発しフィリピン、沖縄、日本の太平洋岸などに配備した。

(2024年5月27日朝刊掲載)

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