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連載・特集

時の碑(いしぶみ) 土田ヒロミ「ヒロシマ・モニュメント」から <11> 横川橋(広島市中区寺町―西区横川町)

優美さ保ち 南北をつなぐ

 広島湾へ注ぐ太田川水系のデルタに広がり、橋の多い広島市街。橋の大半は東西の向きに架かるが、横川橋は南北に架かる。本川から分岐して橋の下を流れる天満川がこの箇所は横(東西方向)に流れることから、「横川」の地名がついたとされる。

 1979年のカットに写るアーチ形鉄橋は、大正時代の23年に完成。郊外の農村と広島市街をつなぐ流通の要で、橋から北へ延びる横川商店街の繁栄を支えた。爆心地から約1・3キロで原爆の爆風にも耐え、戦後も、架け替え工事の始まる83年まで使われた。

 原爆被災時、燃え盛る市中から郊外へ逃れようとする人々が殺到した橋でもあり、多くの被爆証言に登場する。画家で詩人の四国五郎(1924~2014年)による画文集「広島百橋」には、運搬用の牛馬の死も目撃されたとの逸話が引かれている。写真で見る、澄んだ空と川に挟まれた優美なアーチからは想像もつかない光景が、ここに出現した。

 写真家の土田ヒロミさん(84)がカメラを構えたのは、橋の西側に平行して架かる横川新橋の上。戦前から広島電鉄の軌道が通り、被爆時、通過中だった車両は乗客ごと川へ転落した記録が残る。

 2019年のカットに写る架け替え後の橋は、85年11月に開通式が開かれた。コンクリートで成形した白塗りの欄干デザインの、ゆったりした曲線が印象的だ。以前の巨大なアーチはないものの、いっそうの優美をたたえる。

 開通当時の新聞記事などによると、親柱や欄干のデザインは、かつて川を往来した帆掛け舟の帆や手のひらをかたどっている。南側に寺院が立ち並ぶ寺町が広がるのにちなみ、ハスの花を思い浮かべる人もいる。

 多様なイメージを重ね得るのもデザインの妙というべきだろう。かつての橋が原爆の記憶を刻むのに対し、帆も手のひらもハスも、穏やかな平和を想起させる。

 橋の北詰めの横川町1丁目でギャラリーを営む船本由利子さん(71)は、愛犬を連れた散歩で毎日この橋を渡る。橋の上からの風景に「空の広さと、川と共にある街を実感する」。東の対岸にある市営基町高層アパートが川面に映えるさまをスマートフォンで撮影し、交流サイト(SNS)にアップすると「世界中の友人から『いいね!』が届く」と言う。(道面雅量)

(2024年6月1日朝刊セレクト掲載)

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