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連載・特集

『生きて』 カメラマン 三浦憲治さん(1949年~) <2> 段原育ち

写真好きな父を手伝う

  ≪1949年、広島市南段原町(現南区)で、小学校教員の父清博さん、母冴子さんの長男として生まれた。通っていた比治山小には父親も勤めていた≫

 4年生まで一緒だった。嫌だったよ。当時、父は学年主任。学校でもしょっちゅう怒られた。もちろん他の児童と同じように。悪さをすると水の入ったバケツを持たされて廊下に立たされた。水の量を減らして重そうなふりをして立つと、すぐに見つかりさらに怒られた。学校では父親を極力避けていたね。

 放課後は同級生と家の近くで遊んでいたけど、段原にも映画館があってね。みんなで竹刀を持って「赤胴鈴之助」(57年)を見に行ったのを覚えている。帰りはみんなで大合唱。まあ、娯楽が少なかった時代ですよ。

 ≪父清博さんの趣味の一つは写真だったという≫

 汽車や鳥、風景を撮って満足していた。休みの日は熱心に山口に通って鶴の写真を撮っていたな。夜になると子ども部屋を暗室にしてフィルムを現像し、プリントした。それを手伝っていたから、写真の一連の作業はこの時に身に付いたね。

 ただ父は自分が撮った鶴の写真を見せては「いいだろ」って自慢するけど、全然いいと思わない。この頃から父と俺は感性が違っていたんだ。

 父親の趣味に付き合わされたのはこれだけじゃない。SLの模型。仕事から帰ると、いつも作っていた。部屋いっぱいに線路を敷いてSLを走らせた。すると猫が追っかけたり、ひっかけたり。俺がポイントを切り替えて猫に当てると、父に怒られた。

 ≪62年、段原中に入学。3歳上の姉の影響で洋楽を聴くようになる≫

 姉がレコードプレーヤーが欲しいと言ったら、父がスピーカーを手作りした。姉はそれで、なよっとした洋楽を聴いていた。それをまねて俺も洋楽を聴くようになった。最初はアメリカのフォークソングだったかな。

(2024年6月5日朝刊掲載)

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