×

連載・特集

『生きて』 カメラマン 三浦憲治さん(1949年~) <3> 高校時代 

米軍ラジオ 洋楽に夢中

  ≪1965年、段原中(広島市南区)を卒業し海田高(広島県海田町)に入学。写真部に入部した≫
 体は小さいし、運動神経も悪い。だから運動部ではレギュラーにはなれないと思ったんだ。3カ月に1回ほど広島女学院や修道、五日市、基町などの高校の写真部と合同で写真展を開いた。でも出品する写真がみんな真面目なんだ。修道の連中は「写真とはいかにあるべきか」などと語っていたが「難しいこと言うなよ」と思っていたね。

  ≪2年になって部長になった≫
 写真部の部費は年8万円くらいあって、フィルムや印画紙などをそろえるには十分だった。だから余った部費で写真雑誌を買った。「アサヒカメラ」「日本カメラ」は真面目。中でもとんがっていたのは「カメラ毎日」だった。ピントも露出も合っていない写真を堂々と載せていた。それがかっこいいなと思った。でも下級生には「悪影響を与えるから見ない方がいい」と言って見せなかったけど。

  ≪写真の面白さに目覚める一方で、洋楽にも引かれていく≫
 夜は家のラジオで米軍放送(FEN)を聞き、洋楽に夢中になった。そこでビートルズの存在も知った。ニッポン放送も聞いた。ローリング・ストーンズなどの東京で流行している曲に触れた。

 当時、RCCラジオで、リスナー投票で洋楽にランキングを付ける番組があってね。同級生30人ぐらいでつるんで、FENでいち早く知った海外の曲をはがきで投票した。すると一気に1位へ躍り出る。組織票は強い。

 高校時代はこんな感じで、音楽を聴かなきゃいけないし写真もやらないといけない。だから勉強する暇はなかった。参考書を買うと親にうそをついて洋楽のLPレコードを買ったかな。いつかこんなかっこいいジャケット写真を撮りたい。東京の大学で写真を勉強したい。そんなとき、大学の「推薦」という手があるのを知ったんだ。

(2024年6月6日朝刊掲載)

年別アーカイブ