『生きて』 カメラマン 三浦憲治さん(1949年~) <4> 東京へ
24年6月8日
バイトで学び 潮流知る
≪1968年、東京写真短期大(現東京工芸大)に入学。希望に胸を膨らませて上京したが、世の中は学生運動の盛りだった≫
大学には半年ほど通ったけど授業がつまらない。物理もあって数Ⅲをやっていないからまずいと思った。同級生は地方の写真館の子どもが多くて、家業を継ぐのが目的。俺とは全然違う。俺がやりたいのは実践で写真を撮っていくことだから。
純粋にカメラマンになりたかったけど、どうやったらなれるのか分からない。先輩に相談したら「36枚フィルムで月100本撮れ」と言われた。壁や空、いろんなものを撮った。ガールフレンドから「もっとかわいく撮ってよ」と怒られたこともあった。
≪先輩の紹介で、夜はレンタルスタジオでアルバイトを始めた≫
レンタルスタジオにはプロのカメラマンが撮影に来ていたんだ。立木義浩さんや篠山紀信さんといった当時の有名カメラマンも出入りしていた。レフ板(光を反射させるための道具)の持ち方やライティングを𠮟られながら体で覚えたね。そして、カメラマンが撮った写真は半年ほどすると雑誌に出てくる。あの時撮っていた写真がこんなふうになるのか、と雑誌を見て勉強していった。
アルバイトが終わると、新宿ゴールデン街やジャズバーに行くのが日課だった。ゴールデン街には、写真をやっている人のたまり場があったから。そこでいろんな人の話を聞いた。
写真ではちょうど「コンテンポラリー・フォト」と呼ばれるジャンルが出てきた頃。粒子が粗く、ピントが合ってないような写真。写真の世界にも新しい風が吹き始めていた。
東京はレコード店が多かったからよく店を巡って、かっこいいジャケットを探したよ。ジャケットがいいものは中身の音楽もだいたい面白い。結局、短大は行かないから進級できなかった。そこでカメラマンの助手になることにしたんだ。
(2024年6月8日朝刊掲載)