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連載・特集

『生きて』 カメラマン 三浦憲治さん(1949年~) <5> 助手として

怒られてなんぼ 懸命に

  ≪1971年、3年半在籍した東京写真短期大を除籍処分になり、カメラマン長浜治さんの助手となった≫

 当時の有名カメラマン立木義浩さんの一番弟子が長浜さんだった。学生時代に半年くらい立木さんの事務所でアルバイトをした縁もあり、入れてもらえた。

 長浜さんは8歳年上で、兄貴のようであり、親代わりのような存在。雑誌だけでなく音楽関係の写真も撮っていた。長浜さんの口癖は「時間があるなら撮りに行け」。週刊誌「平凡パンチ」やファッション誌「アンアン」などのインタビュー写真を撮らせてもらえるようになった。

 事務所には雑誌の編集者がしょっちゅう打ち合わせに来ていた。どんなふうに撮影し、写真を選んで写真ページを作るのか―。編集者のアイデアとカメラマンのテクニックがうまく絡むと面白いページができる。勉強になったよ。

 ≪助手の仕事で最も大変だったのがフィルムの現像だという≫

 1回の撮影でフィルム50本くらいを現像する。当時、現像液はてんびんで試薬を量ってオリジナルの液を作っていたんだけれど、これが難しい。写真のトーンに合わせて調合割合を変えなくてはならない上、「現像を硬くしろ」「コントラストを上げろ」なんて指示される。ノートに記録して自分だけのやり方を工夫していたね。

 それに現像中は何度も睡魔に襲われた。はっと気付くと何分たったのか分からなくなり、たまに何本かは現像オーバーでネガが真っ黒になった。

 プロが撮ったものを台無しにはできない。行き過ぎた現像を少しでも戻すにはどうすればいいか、必死で調べた。結局、「赤血塩」と呼ばれる粉末を加えると、真っ黒なネガが少し元に戻ると分かった。人は失敗を繰り返して学んでいくんだな。

 振り返ると、レベルの低い助手だったと思うよ。でもあのころは怒られてなんぼ。𠮟られながら仕事を覚えていったんだ。

(2024年6月11日朝刊掲載)

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