[無言の証人] 女学生の財布
24年6月11日
あの日 行動を共に
水面(みなも)に浮かぶボートで誰かがオールを動かしているように見える。彩色の絵図がわずかに残る小さな財布は、1945年8月6日、比治山高等女学校(現比治山女子中高)3年生だった西丸公子さん=当時(15)=が所持していた。縦6センチ、横10.5センチほど。ファスナー付きのしゃれたデザインだ。 公子さんは学徒動員先の中国軍管区司令部(現中区)の屋外で閃光(せんこう)を浴びた。爆心地から約790メートル。全身に大やけどを負った。
両親に会いたい一心だったに違いない。泳ぎが得意だった公子さんは、大やけどの体で京橋川を泳いで渡り、牛田町(現東区)の自宅にたどり着く。公子さんの顔は腫れ上がっていて、母親の寿々子さんは「お母さん」と呼ぶ声で本人だと分かったという。
そんな状態にもかかわらず公子さんは、逃げる途中で父親に買ってもらった靴を片方なくしてしまったことを気に病み、「申し訳ない」と泣いたそうだ。物資が乏しい時代、靴も財布もとても大事にしていたのだろう。
やがて自宅にも火の手が迫る。両親は公子さんを連れて山へ逃げ、竹やぶにつった蚊帳の中で看病を続けたが、8月10日朝、公子さんは帰らぬ人となった。
少女たちの「悲惨な死を知ってもらいたい」。寿々子さんは1972年、原爆資料館に寄贈した。(森田裕美)
(2024年6月11日朝刊掲載)