明窓 特集 亡き父を思う
24年6月17日
父の日、母の日に合わせた特集は今回で5回目になりました。これまでで最も多い157通の投稿がありました。ありふれた日常の一こまの描写からも、お父さんから受け取った愛情の深さをひしひしと感じ取ることができました。
投稿の末尾に「思いがあふれて書き切れない」と添えてくださった方がいました。月日がたってもお父さんへの思いが失われることはない。いつまでも心の中にいる―。あらためて教えていただきました。(山田祐、イラスト・国友健州)
焼きナス
中学校を卒業後、父の反対を押し切って実家を出て、岡山県内にある織物の会社の寮に住み込んで定時制高校に通うことを選んだ。激しいやりとりで「卒業するまで帰ってくるな」と言われていた。
4月から仕事と授業が始まり、あっと言う間にお盆が近づいた。母から手紙が届いた。「お父ちゃんが待っとるよ」と記してあった。
当時は実家に固定電話すらなかった。電話がある近所の家に、帰省する日時を連絡して伝言を頼んだ。バスと鉄道を乗り継ぎ、実家に着いたのは夕方。空腹を感じながらたどり着くと、目の前には七輪のそばで背中を丸めてナスを焼いている父の姿があった。
「ただいま」。「お帰り。アッコが好きな焼きナスを作っちゃろうと思うての」。半年前の売り言葉に買い言葉はお互いすっかり忘れてしまった。
父が亡くなったのは27年前。先に逝った母の墓参りを済ませた3日後、玄関を出たところで倒れ、そのままお浄土へ還(かえ)った。葬儀の時は桜が散り、まるで父を見送ってくれているように思えた。
今年も自宅近くの畑にナスの苗を植えた。自分で焼くたび、あの日の父の背中を思い出す。 (岩国市・梅川厚子・主婦・70歳)
妹と弟
父には兄がいて、2人兄弟だとずっと思っていた。3年前に父が亡くなり、手続きのため戸籍を取り寄せた。そこに妹と弟の名前が記されていた。妹は1945年8月6日に、弟はその半年後に幼くして亡くなっていた。原爆投下によって父が突き付けられた残酷な事実を知ることとなった。
私が小学3年生の頃、平和学習の一環で身近な人に戦争体験を聞くという課題があった。父に尋ねたが、力なく笑みを浮かべるだけで何も答えてはくれなかった。
前向きな性格で、小さな子どもが大好きだった父。86歳で亡くなるまで、どれほどの悲しみを抱えて生きてきたのだろうか。悲痛な経験を何も語らずにいた、その胸中を思うたびに涙があふれる。
亡くなる1年前、日々の生活に疲れていた私を誘い、車で近くの高台に連れて行ってくれた。眼下を眺めながら「たくさん家があって、そこに人が暮らしている。みんないろんな事がある。それでも生きとるんよ」。穏やかに話してくれたのが忘れられない。
父の過去を知ってから、一層深く心に染み渡った。その言葉はいつも私の心の中にあり、毎日を支え続けてくれている。(広島市安佐南区・沖野真由美・主婦・59歳)
もう一度会えるなら
17年間私のことを育ててくれてありがとう。
パパはいつも優しくて、私がふざけた話をしたら大笑いして楽しそうに聞いてくれて、悩み事を話したら真剣に耳を傾けて相談に乗ってくれたね。
一緒に笑って、変顔して、写真撮って、たまにはけんかもして、たくさんたくさん私に愛情を注いでくれたね。私にはちゃんと伝わっていたよ。
パパがいることが当たり前だと思っていたから、突然のパパとのお別れがいまだに信じられないよ。パパに会いたい。話したい。また一緒に大笑いしたい。一緒にお出かけしたい。私の名前をもっと呼んでほしい。
もしもう一度会えるなら、感謝の気持ちを思いっきり伝えたい。私のパパでいてくれてありがとう。そして恥ずかしくて直接は言えなかったけれど、パパのことが世界で一番大好きだよ。
これからは私がママのことを守るから、ずっと私たちのことを近くで見守っていてください。 (三原市・福濱暖和・高校3年生・17歳)
鮮明な記憶
小学校に入学する前年の1947年の晩秋。農作業が一段落した日の朝早く、父と母と3人で備後十日市駅(現在の三次駅)発の列車に乗った。
広島駅で乗り換え、宮島口で降りて船に乗り継いだ。船を見るのも海を見るのも全く初めて。びっくりすることの連続だった。船から眺めた朱色の大鳥居は壮観だった。
厳島神社に参拝後、大鳥居の近くまで歩いた。父に「海の水をなめてみろ」と言われた。右手の人さし指を水に漬け、恐る恐る口に運んだ。海の水は塩辛いと初めて知った。「塩はこの水から作る」と教えてくれた。
広島駅に戻った後、こちらも初めて目にした路面電車に乗った。大きな百貨店に入り、人の多さに驚いてばかりだった。
決して余裕のある生活ではなかったが、子どもに広い世界を見せてやりたいと考えたのだろう。姉、妹、弟の4人きょうだいだが、それぞれ同じ経験をさせてくれた。
あの時見たこと、経験したことは、長い年月を経た今も鮮明に記憶している。父といつかお浄土でゆっくりと話をし、お礼を言いたいと思っている。 (広島市安佐北区・鴨池英典・無職・82歳)
花言葉
生後40日余りの私を母に託し、戦地に出なくてはならなかった父。たった一つ許されたのが名前を付けることだった。
生まれたのは中国の大連で、自宅の周りには、美しい芙蓉(ふよう)の花があちこちに咲いていたそうだ。「芙」の字を取ってくれた。
芙蓉の花言葉は「繊細な美」。戦死した父の思いを感じながら、どんな時も私の心の支えとなってくれた大好きな名前だ。
30年前、母の百日法要と父の五十回忌法要を一緒にお勤めしてもらった夏の暑い日を思い出す。
いつも母に守られながら過ごしてきた私にとって初めての大きな仕事で、不安に押しつぶされそうだった。それでも一生懸命にやり遂げることができたのは、私の成長を父に認めてもらいたいという思いと、戦後も精いっぱい生き抜いてくれた母への感謝を示したいと考えたからだ。
父との思い出がないためか、いつも心のどこかで父を探してきたように思う。それは裏を返せば、父が常に見守ってくれている証しなのかもしれない。
父は私の子ども、孫へとつながっている。みんなに支えられて大きな病気をすることなく傘寿を迎えることができ、感謝の日々だ。 (尾道市・奥本芙美枝・主婦・80歳)
ピアノ
父はいつもユーモアにあふれ、歌が好きなスポーツマンだった。「お父さん子」だった私は、一緒に出かけるときはいつも手をつないでもらった。ぎゅっと力を入れて握ってくるので、私も負けじと強く握り返す。握り合いの遊びのおかげで、握力がずいぶん強くなった。
昨年の年明け、突然腕が痛くなって指が動かしにくくなった。力が入らず、何をするにも不自由だった。整体の先生に「毎日少しずつ指のトレーニングをしましょう」と言われ、思いついたのが「ピアノリハビリ」だった。音楽が好きなので、楽しみながら取り組めると考えたのだ。
考えてみれば私が音楽に親しんだのは、2歳の誕生日におもちゃのピアノを買ってもらったのがきっかけだった。大喜びで鍵盤を弾く私のそばには、いつも父がいた。
近年、弾かない状態が続いていた。リハビリとして取り入れてからは、毎日数十分の練習を続けた。おかげでだんだんと腕に力が入るようになった。演奏も少し上手になった。
3年前他界した父が助けてくれた気がしてならない。鍵盤を押すたび、口癖だった「立派!」という声が聞こえてくるようだ。 (庄原市・高橋江利香・主婦・60歳)
小さな石
父と遊んだり、どこかに連れて行ってもらったりした記憶はない。私と父を結ぶ唯一の思い出は1枚の写真だけ。父と生後3カ月の私が写っている。父はその後、戦地に出て中国で戦病死した。
父と酒を酌み交わしながら話をしてみたかった。父はどんな子どもだったのか、青春時代は何をして過ごしたのか、母との新婚生活、私が生まれたことをどんなふうに受け止めたのか…。そして私の人生の節目節目に、父ならばどんなアドバイスをしてくれたのだろうかとも考える。
小学1年生から5年生の1学期まで、父の古里の四国で過ごした。同じ野原を駆け巡り、川で泳いだ。今でもその頃の光景や空気を忘れずにいる。
心の区切りをつけるため10年前、中国への訪問団に加わり、父の戦没の地を訪ねた。小高い丘の上に立ち、遅くなったおわびを言って手を合わせた。
父が歩いたかもしれない道の小さな石をそっと手に取った。今、仏壇の前に写真と石を置いている。私たちを毎日見守ってくれている。 (廿日市市・冨士枝勇雄・無職・79歳)
(2024年6月17日朝刊掲載)
投稿の末尾に「思いがあふれて書き切れない」と添えてくださった方がいました。月日がたってもお父さんへの思いが失われることはない。いつまでも心の中にいる―。あらためて教えていただきました。(山田祐、イラスト・国友健州)
焼きナス
中学校を卒業後、父の反対を押し切って実家を出て、岡山県内にある織物の会社の寮に住み込んで定時制高校に通うことを選んだ。激しいやりとりで「卒業するまで帰ってくるな」と言われていた。
4月から仕事と授業が始まり、あっと言う間にお盆が近づいた。母から手紙が届いた。「お父ちゃんが待っとるよ」と記してあった。
当時は実家に固定電話すらなかった。電話がある近所の家に、帰省する日時を連絡して伝言を頼んだ。バスと鉄道を乗り継ぎ、実家に着いたのは夕方。空腹を感じながらたどり着くと、目の前には七輪のそばで背中を丸めてナスを焼いている父の姿があった。
「ただいま」。「お帰り。アッコが好きな焼きナスを作っちゃろうと思うての」。半年前の売り言葉に買い言葉はお互いすっかり忘れてしまった。
父が亡くなったのは27年前。先に逝った母の墓参りを済ませた3日後、玄関を出たところで倒れ、そのままお浄土へ還(かえ)った。葬儀の時は桜が散り、まるで父を見送ってくれているように思えた。
今年も自宅近くの畑にナスの苗を植えた。自分で焼くたび、あの日の父の背中を思い出す。 (岩国市・梅川厚子・主婦・70歳)
妹と弟
父には兄がいて、2人兄弟だとずっと思っていた。3年前に父が亡くなり、手続きのため戸籍を取り寄せた。そこに妹と弟の名前が記されていた。妹は1945年8月6日に、弟はその半年後に幼くして亡くなっていた。原爆投下によって父が突き付けられた残酷な事実を知ることとなった。
私が小学3年生の頃、平和学習の一環で身近な人に戦争体験を聞くという課題があった。父に尋ねたが、力なく笑みを浮かべるだけで何も答えてはくれなかった。
前向きな性格で、小さな子どもが大好きだった父。86歳で亡くなるまで、どれほどの悲しみを抱えて生きてきたのだろうか。悲痛な経験を何も語らずにいた、その胸中を思うたびに涙があふれる。
亡くなる1年前、日々の生活に疲れていた私を誘い、車で近くの高台に連れて行ってくれた。眼下を眺めながら「たくさん家があって、そこに人が暮らしている。みんないろんな事がある。それでも生きとるんよ」。穏やかに話してくれたのが忘れられない。
父の過去を知ってから、一層深く心に染み渡った。その言葉はいつも私の心の中にあり、毎日を支え続けてくれている。(広島市安佐南区・沖野真由美・主婦・59歳)
もう一度会えるなら
17年間私のことを育ててくれてありがとう。
パパはいつも優しくて、私がふざけた話をしたら大笑いして楽しそうに聞いてくれて、悩み事を話したら真剣に耳を傾けて相談に乗ってくれたね。
一緒に笑って、変顔して、写真撮って、たまにはけんかもして、たくさんたくさん私に愛情を注いでくれたね。私にはちゃんと伝わっていたよ。
パパがいることが当たり前だと思っていたから、突然のパパとのお別れがいまだに信じられないよ。パパに会いたい。話したい。また一緒に大笑いしたい。一緒にお出かけしたい。私の名前をもっと呼んでほしい。
もしもう一度会えるなら、感謝の気持ちを思いっきり伝えたい。私のパパでいてくれてありがとう。そして恥ずかしくて直接は言えなかったけれど、パパのことが世界で一番大好きだよ。
これからは私がママのことを守るから、ずっと私たちのことを近くで見守っていてください。 (三原市・福濱暖和・高校3年生・17歳)
鮮明な記憶
小学校に入学する前年の1947年の晩秋。農作業が一段落した日の朝早く、父と母と3人で備後十日市駅(現在の三次駅)発の列車に乗った。
広島駅で乗り換え、宮島口で降りて船に乗り継いだ。船を見るのも海を見るのも全く初めて。びっくりすることの連続だった。船から眺めた朱色の大鳥居は壮観だった。
厳島神社に参拝後、大鳥居の近くまで歩いた。父に「海の水をなめてみろ」と言われた。右手の人さし指を水に漬け、恐る恐る口に運んだ。海の水は塩辛いと初めて知った。「塩はこの水から作る」と教えてくれた。
広島駅に戻った後、こちらも初めて目にした路面電車に乗った。大きな百貨店に入り、人の多さに驚いてばかりだった。
決して余裕のある生活ではなかったが、子どもに広い世界を見せてやりたいと考えたのだろう。姉、妹、弟の4人きょうだいだが、それぞれ同じ経験をさせてくれた。
あの時見たこと、経験したことは、長い年月を経た今も鮮明に記憶している。父といつかお浄土でゆっくりと話をし、お礼を言いたいと思っている。 (広島市安佐北区・鴨池英典・無職・82歳)
花言葉
生後40日余りの私を母に託し、戦地に出なくてはならなかった父。たった一つ許されたのが名前を付けることだった。
生まれたのは中国の大連で、自宅の周りには、美しい芙蓉(ふよう)の花があちこちに咲いていたそうだ。「芙」の字を取ってくれた。
芙蓉の花言葉は「繊細な美」。戦死した父の思いを感じながら、どんな時も私の心の支えとなってくれた大好きな名前だ。
30年前、母の百日法要と父の五十回忌法要を一緒にお勤めしてもらった夏の暑い日を思い出す。
いつも母に守られながら過ごしてきた私にとって初めての大きな仕事で、不安に押しつぶされそうだった。それでも一生懸命にやり遂げることができたのは、私の成長を父に認めてもらいたいという思いと、戦後も精いっぱい生き抜いてくれた母への感謝を示したいと考えたからだ。
父との思い出がないためか、いつも心のどこかで父を探してきたように思う。それは裏を返せば、父が常に見守ってくれている証しなのかもしれない。
父は私の子ども、孫へとつながっている。みんなに支えられて大きな病気をすることなく傘寿を迎えることができ、感謝の日々だ。 (尾道市・奥本芙美枝・主婦・80歳)
ピアノ
父はいつもユーモアにあふれ、歌が好きなスポーツマンだった。「お父さん子」だった私は、一緒に出かけるときはいつも手をつないでもらった。ぎゅっと力を入れて握ってくるので、私も負けじと強く握り返す。握り合いの遊びのおかげで、握力がずいぶん強くなった。
昨年の年明け、突然腕が痛くなって指が動かしにくくなった。力が入らず、何をするにも不自由だった。整体の先生に「毎日少しずつ指のトレーニングをしましょう」と言われ、思いついたのが「ピアノリハビリ」だった。音楽が好きなので、楽しみながら取り組めると考えたのだ。
考えてみれば私が音楽に親しんだのは、2歳の誕生日におもちゃのピアノを買ってもらったのがきっかけだった。大喜びで鍵盤を弾く私のそばには、いつも父がいた。
近年、弾かない状態が続いていた。リハビリとして取り入れてからは、毎日数十分の練習を続けた。おかげでだんだんと腕に力が入るようになった。演奏も少し上手になった。
3年前他界した父が助けてくれた気がしてならない。鍵盤を押すたび、口癖だった「立派!」という声が聞こえてくるようだ。 (庄原市・高橋江利香・主婦・60歳)
小さな石
父と遊んだり、どこかに連れて行ってもらったりした記憶はない。私と父を結ぶ唯一の思い出は1枚の写真だけ。父と生後3カ月の私が写っている。父はその後、戦地に出て中国で戦病死した。
父と酒を酌み交わしながら話をしてみたかった。父はどんな子どもだったのか、青春時代は何をして過ごしたのか、母との新婚生活、私が生まれたことをどんなふうに受け止めたのか…。そして私の人生の節目節目に、父ならばどんなアドバイスをしてくれたのだろうかとも考える。
小学1年生から5年生の1学期まで、父の古里の四国で過ごした。同じ野原を駆け巡り、川で泳いだ。今でもその頃の光景や空気を忘れずにいる。
心の区切りをつけるため10年前、中国への訪問団に加わり、父の戦没の地を訪ねた。小高い丘の上に立ち、遅くなったおわびを言って手を合わせた。
父が歩いたかもしれない道の小さな石をそっと手に取った。今、仏壇の前に写真と石を置いている。私たちを毎日見守ってくれている。 (廿日市市・冨士枝勇雄・無職・79歳)
(2024年6月17日朝刊掲載)