『今を読む』 都立第五福竜丸展示館学芸員 市田真理(いちだまり) 米水爆実験70年
24年6月15日
未来を変える「航海」は続く
落ち込んだ時の自分への応援歌はラッパーKREVAさんの「変えられるのは未来だけ」だ。過去にあった事実をゆがめたり、なかったりにはできないが、私たちは未来を創ることに関与できる―。その未来のために歴史を学ぶのだと自分に言い聞かせ、へこんだ心に元気を注入する。
第五福竜丸展示館のある夢の島公園は1960年代後半まで、ごみ捨て場だった。廃船となった船の墓場とも呼ばれ、東京水産大(現東京海洋大)の演習船「はやぶさ丸」に改修されたかつての「第五福竜丸」も、その一隅に捨てられていた。そのまま放置されていれば木造船はやがて朽ちて解体され、沈んでいったはずだ。
しかし「被曝(ひばく)船」と気付いた市民によって10年に及ぶ保存運動が取り組まれ、東京都が保存することになる。76年6月10日に都立第五福竜丸展示館が開館した。保存運動が東京・江東区から全国に広がるきっかけの一つは、武藤宏一という青年の「沈めてよいか第五福竜丸」という新聞投書だった。
そこに「原爆ドームを守った私たちの力でこの船を守ろう」という一文がある。存廃論議の末にドームが市民によって守られたように第五福竜丸も、という訴えは多くの人々の心を揺さぶった。投書にはこんなフレーズもある。「知らない人には心からつげよう。忘れかけている人には、そっと思いおこさせよう」。これは私たちの合言葉でもある。
展示館の中央には、54年に米国がマーシャル諸島で行った水爆実験で被災した第五福竜丸が展示されている。建物に入ると目の前に船底があり、真上に船が迫ってくるため、多くの来館者が「うわああ」と声を上げる。記憶の封印がほどけ、「忘れかけて」いたさまざまなこと―魚から放射能が検出されて「原爆マグロ」と呼ばれたこと、雨にも放射能があるといわれ、ぬれないように親から言われたこと、無線長の久保山愛吉さんの容体が毎日ラジオで報じられ、お見舞いの手紙を書いたこと、久保山さんが亡くなったとき本当に悲しかったことなどを思い出す。
一方で第五福竜丸やビキニ事件のことを「知らない人」たちは、船の気配におののきながら、キャッスル作戦と名付けられた6回の水爆実験により、第五福竜丸以外にも多くの漁船が被害を受けたことや、核実験場とされたマーシャル諸島のこと、これまでに2千回を超える核実験が行われてきた世界の歴史を知り、驚く。
とはいえ誰もが展示館を訪れてくださるわけではない。「知らない人」たちに、どうしたらもっとこの事実を届けられるだろう。キャッスル作戦から70年の節目を迎えるに当たり、交流サイト(SNS)で発信を始めた。それが「第五福竜丸航海記」だ。同僚の蓮沼佑助、助っ人の柳川悠月と相談しながら「70年前の今日」に何があったかをインスタグラムに投稿している。イラストと短い言葉による紙芝居の体裁だが、膨大な先行研究の蓄積を反映させていると自負している。
投稿のための資料を整理しながら気付かされることも多い。
例えば第五福竜丸の被災が発覚した1週間後、米上下両院合同原子力委員会のスターリング・コール議長は、第五福竜丸はソ連のスパイではないかと発言している。3月31日の記者会見では米原子力委員会のルイス・ストローズ委員長も「第五福竜丸は(事前に通告された)危険区域内にいたのではないか」とコメントした。この頃、米国ではマッカーシー上院議員による「赤狩り」の嵐が吹き荒れ、水爆開発に懐疑的な発言は格好の標的にされ、敵視された。
米CBSのエド・マーロウが番組「シー・イット・ナウ」でマッカーシーを批判したのもこの頃であるし、水爆に批判的だったロバート・オッペンハイマーの聴聞会が開かれていたのもキャッスル作戦の期間に重なるのだと、あらためて気付く。ばらばらに認識していた歴史のピースが目の前で一つになる感覚だ。
第五福竜丸乗組員の存命者は現在、お二人だが、だからといって当事者なき時代などと呼ばないでほしい。あの時代に生きた全ての人たちが当事者のはずだ。歴史を学ぶこととは資料に基づき、事実のピースを咀嚼(そしゃく)し、理解しながら自分自身に当事者性を立ち上げていくことなのではないかと思う。
当事者の生の声を聴く機会は、間違いなく激減する。だからこそあの時代を生きた人たちが遺(のこ)した手記や言葉を手掛かりに、私たちの航海は続く。核のない未来を創っていく。だって変えられるのは未来だけだから。
1967年札幌市生まれ。編集者、市民運動事務局などを経て、公益財団法人第五福竜丸平和協会事務局、2023年事務局長。著書に「ポケットのなかの平和―わたしの語りつぎ部宣言」(平和文化)など。
(2024年6月15日朝刊掲載)