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社説・コラム

『今を読む』 防衛大学校教授 伊藤融(いとうとおる) インド総選挙

モディ首相に注文 民主主義の力

 世界最大の人口を抱えるインドの有権者は、10年間続いた現政権に、さらに5年間の延長切符を手渡した。けれども、その切符のただし書きには、これまでの実績への厳しい批判と注文が書き込まれ、有効期間内でも「前途無効」の可能性があるとも記された。

 6月4日、開票作業が進むにつれ、与党インド人民党(BJP)党本部は、重苦しい雰囲気に包まれた。事前の世論調査と出口調査はいずれも与党の圧勝を予測していた。中には、モディ首相が公言してきた連邦下院543議席中、BJPで370議席、与党連合の国民民主連合(NDA)で400議席超えも視野に、といった報道すら散見された。

 そんな中での思わぬ苦戦である。ふたを開けてみると、その目標どころか、モディ氏を首相候補とした過去2度の総選挙でBJPとNDAが獲得した議席数すら下回る、BJP240議席、NDAで293議席という結果に終わった。モディ氏のBJPは単独過半数を初めて割り込んだのである。

 それでも、NDAとしての過半数はどうにか維持し、モディ政権は初代首相ネルー氏以来となる連続3期目に突入する。しかし、今回の政権がこれまでの2期と異なるのは、本当の意味でのNDA連立政権になったという点だ。

 連立パートナーの地域政党のいくつかが支持を撤回し、野党側に寝返るようなことがあれば、政権はたちまち崩壊してしまう。与野党伯仲の微妙な議席分布下では、こうした地域政党が、政権の人事や政策で事実上の拒否権を握る。

 政権維持には、説得と調整が必要不可欠だ。西部グジャラート州首相時代も含め、常に有無を言わせずトップダウンで決定してきた政治スタイルのモディ氏に、そんなことができるのかは未知数だ。

 では、なぜ有権者がモディ氏の即座の退場は求めず、政権にとどまることを認めながらも厳しい試練を課したのか。もちろん、インドは広大かつ多様で、州や地域ごとに事情は異なる。今回BJPが最も多くの議席を失った北部ウッタル・プラデーシュ州でBJPの得票率は8%以上も低下し、モディ氏も自身の選挙区で野党統一候補にあわやというところまで迫られた。他方で地域政党の牙城、南部タミル・ナードゥ州では議席獲得には至らなかったものの、モディ氏が繰り返し遊説に入り、BJPは得票率を8%近く上げた。

 その結果、「モディの保証」を掲げたBJPの支持率低下は、全国規模でみると1%にも満たなかった。現地で信頼性の高い研究機関、発展途上社会センター(CSDS)による選挙後の調査を見ても、モディ氏が首相として望ましいとの回答が、野党国民会議派のラフル・ガンディー氏を上回った。モディ氏が拒否されたわけではないのである。現政権に満足しているとの回答は、前回総選挙時と比べてわずかに低下したとはいえ、6割近くを維持した。与党に投じた有権者が理由として挙げたのは、国の発展、モディ氏のリーダーシップ、統治などであった。

 興味深いのは、それにもかかわらず、野党に投じた有権者が相当みられたという点だ。モディ政権に「完全に満足」している有権者でも、BJPとNDAに入れたのは78%にとどまり、「ある程度満足」と答えた層からは51%しか集票できなかったのである。所得階層別にみると、BJPが元来支持基盤としてきたはずの富裕層・中間層の一部の票が野党に流れたことがうかがえる。また野党に投じた有権者にその理由を尋ねると、物価高騰と失業への不満が上位を占め、合わせて6割近くに上った。

 これらから推察されるのは、第一に、インドという国家の飛躍を託せるリーダーとしてのモディ人気は若干衰えたとはいえ、依然として根強いということ。第二に、そのモディ氏に高い期待を寄せた中高所得層の中に、大学を出ても職がないといった不満が募ったのではないかということ。第三に、モディ政権に大きな不満はないが、強くなり過ぎるモディ氏に対し、懸念を抱く人々が野党に入れた可能性である。モディ政権の10年間では、ムスリムなど少数派を排除するヒンドゥー・ナショナリズムと、異論を力で封じる強権政治が進んだが、現地の世論調査でもインド国民の半数近くが危機感を抱いている。

 すなわち、9億7千万の有権者が下した審判は、モディ氏をある程度評価しつつも、無条件の信任は与えないというものだった。宗教やメディアの自由、民主主義を破壊しないようけん制し、自身の掲げる「2047年(独立後100年)までの先進国入り」という国民生活向上のための政策にまい進するよう求めたのである。

 インド民主主義の底力を感じさせる総選挙であった。

 1969年、福山市生まれ。中央大大学院法学研究科政治学専攻博士課程後期単位取得退学。広島大で博士(学術)。在インド日本大使館専門調査員、島根大法文学部准教授などを経て、2021年から現職。著書に「インドの正体」など。

(2024年6月18日朝刊掲載)

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