緑地帯 東繁春 ロサンゼルスの日本文化③
24年6月20日
1981年にロサンゼルスで私が日本語記者を始めた「加州毎日新聞」の社屋は、地元の日本人が「日本人町」と呼ぶリトル東京にあった。しかし、町らしい風情があるのは数ブロックで、大半は倉庫街だった。リトル東京が海外最大の日本人町だったのは、太平洋戦争が始まった41年までのこと。3万人以上の日本人が住んでいた。
当時の米国は人種差別が激しく、ユダヤ人も迫害され、あらゆるところで人種隔離が実施されていた。市の条例で人種ごとの居住地区が定められ、リトル東京は日本人地区だったが、ロサンゼルス川を越えて東にあるボイル・ハイツは日本人、ユダヤ人の多人種が住んでいた。墓地にまで人種隔離は適用され、日本人を埋葬できるのはボイル・ハイツ内に決められていた。
戦前のリトル東京には、日本人が経営する商店が立ち並び、日刊の新聞社が数社、寺院も数カ寺、3階建ての大きなキリスト教会、葬儀社もあり、日本人による日本人のためのコミュニティーだった。住民の大半は1世で、米国生まれの2世の多くはまだ子ども。今年82回目を迎えるリトル東京のフェスティバル「二世ウィーク」が始まったのは34年のことだった。
41年の日本軍によるハワイ・真珠湾攻撃は、リトル東京だけでなく、米国に住む日本人の運命を一変させた。翌年2月、大統領令が発令され、西海岸に住んでいた12万人以上の日系人が強制収容所に送られた。(カルチュラル・ニュース編集長=ロサンゼルス、呉市出身)
(2024年6月20日朝刊掲載)
当時の米国は人種差別が激しく、ユダヤ人も迫害され、あらゆるところで人種隔離が実施されていた。市の条例で人種ごとの居住地区が定められ、リトル東京は日本人地区だったが、ロサンゼルス川を越えて東にあるボイル・ハイツは日本人、ユダヤ人の多人種が住んでいた。墓地にまで人種隔離は適用され、日本人を埋葬できるのはボイル・ハイツ内に決められていた。
戦前のリトル東京には、日本人が経営する商店が立ち並び、日刊の新聞社が数社、寺院も数カ寺、3階建ての大きなキリスト教会、葬儀社もあり、日本人による日本人のためのコミュニティーだった。住民の大半は1世で、米国生まれの2世の多くはまだ子ども。今年82回目を迎えるリトル東京のフェスティバル「二世ウィーク」が始まったのは34年のことだった。
41年の日本軍によるハワイ・真珠湾攻撃は、リトル東京だけでなく、米国に住む日本人の運命を一変させた。翌年2月、大統領令が発令され、西海岸に住んでいた12万人以上の日系人が強制収容所に送られた。(カルチュラル・ニュース編集長=ロサンゼルス、呉市出身)
(2024年6月20日朝刊掲載)