緑地帯 巣山ひろみ バウムクーヘンと似島③
24年7月4日
神戸市文書館で、カール・ユーハイムの生きていた時代の新聞を読むことから始めた。神戸はユーハイムが日本での菓子職人人生の大半を過ごし、亡くなった土地である。
第1次世界大戦中、ユーハイムはドイツ人捕虜として、青島(チンタオ)から日本に連れてこられた。当初は大阪で囚(とら)われたが、その後1917年に似島の収容所に移される。翌年、大戦は終結し、19年に広島でドイツ人捕虜による作品展覧会が開かれた。
開催場所は広島県物産陳列館。のちに原爆ドームと呼ばれる建物だ。船の模型、革製品、絵画、晴雨計などさまざまに展示された。そこでユーハイムはバウムクーヘンを日本で初めて製造販売し、好評を得た。このことがきっかけで、家族を日本に呼び寄せ、菓子職人として生きることを決心する。
神戸市文書館で読んだ関東大震災の記事に「救助にきた英国汽船が外国人を収容し、神戸に運んだ」とあった。ユーハイムが横浜に店を持って翌年の惨事である。店は崩壊。ユーハイムは大けがを負いながらも、無一文の状態から神戸三宮で店をたちあげた。店は大盛況で、日本人を多く雇い、職人として育て上げた。かと思えば、第2次世界大戦の勃発だ。戦禍の中でまたしても、店と工場を失った。終戦前日、ユーハイムは亡くなるが、育てた職人たちにより、店は再建された。
日本に洋菓子を広めた人生は、あらゆる困難に立ち向かった人生でもあった。(児童文学作家=広島市)
(2024年7月4日朝刊掲載)
第1次世界大戦中、ユーハイムはドイツ人捕虜として、青島(チンタオ)から日本に連れてこられた。当初は大阪で囚(とら)われたが、その後1917年に似島の収容所に移される。翌年、大戦は終結し、19年に広島でドイツ人捕虜による作品展覧会が開かれた。
開催場所は広島県物産陳列館。のちに原爆ドームと呼ばれる建物だ。船の模型、革製品、絵画、晴雨計などさまざまに展示された。そこでユーハイムはバウムクーヘンを日本で初めて製造販売し、好評を得た。このことがきっかけで、家族を日本に呼び寄せ、菓子職人として生きることを決心する。
神戸市文書館で読んだ関東大震災の記事に「救助にきた英国汽船が外国人を収容し、神戸に運んだ」とあった。ユーハイムが横浜に店を持って翌年の惨事である。店は崩壊。ユーハイムは大けがを負いながらも、無一文の状態から神戸三宮で店をたちあげた。店は大盛況で、日本人を多く雇い、職人として育て上げた。かと思えば、第2次世界大戦の勃発だ。戦禍の中でまたしても、店と工場を失った。終戦前日、ユーハイムは亡くなるが、育てた職人たちにより、店は再建された。
日本に洋菓子を広めた人生は、あらゆる困難に立ち向かった人生でもあった。(児童文学作家=広島市)
(2024年7月4日朝刊掲載)