×

ニュース

「救護所」の学校 手記が語る悲惨 前身校の教員 故徳丸さん残す 廿日市小 原爆と平和学ぶ授業

 広島市に原爆が投下された1945年に廿日市市の廿日市国民学校(現廿日市小)で教員をしていた故徳丸ツキノさんの手記を教材にした授業が3日、同小であった。救護所となった学校に被爆者が続々と運ばれてくる光景をしたためた証言。児童は朗読を聞き平和の大切さをかみしめた。(八百村耕平)

 手記は原爆投下から50年の節目にノートに手書きされたもの。徳丸さんが80歳で亡くなった2005年、広島市佐伯区の自宅で発見された。長男の達也さん(72)が昨夏、同小に活用を持ちかけ、現役教員たちが今年6月にA4判10ページの冊子にまとめた。

 原爆が落とされた当時、徳丸さんは20歳。窓際の生徒が「熱い」と叫んだ2、3秒後に閃光(せんこう)が走ったという。手記では皮膚が垂れ下がり灰をかぶった人が運ばれてくる様子を生々しく回想。「人間であることを疑うくらい悲惨極まりなき光景」「こんなむごい生き地獄、多くの人々が悲しく哀れに死んでしまった」などとつづる。

 授業では、6年生139人が、FMはつかいちのパーソナリティー東園恵さん(31)の朗読に耳を傾けた。医師も脱脂綿も不足する中、傷口を消毒液で洗って回る若い教員に思いを寄せ「目の前の人を助けられず、どれだけつらかっただろう」「とても心が締め付けられた」と語り合った。

 金山栞さん(12)は「ツキノさんの気持ちを想像するだけでもしんどくなる。二度と戦争を起こさないため語り継がなきゃいけない歴史だと感じた」と力を込めた。

 同小は今後、平和教育の一環として6年生の授業で手記を活用する。達也さんは「埋もれていくかもしれなかった体験を多くの子どもが継承してくれる。母も喜んでくれるはず」と感謝している。

(2024年7月4日朝刊掲載)

年別アーカイブ