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[ヒロシマの空白 街並み再現] 広島高等工業 戦時下の青春 広島大工学部の前身 卒業アルバムを遺族が保管

白衣姿や談笑 … 銃携え行進も

 広島大は、今月1日に最も古い前身校から数えて創立150周年を迎えた。75年前に新制大学として出発するまでは複数の前身校があった。その一つ、広島高等工業学校(現広島大工学部)の応用化学科を1943年に卒業した吉田英男さん(80年に58歳で死去)の卒業アルバムを次女の順子さん(72)=広島市東区=が保管している。時は太平洋戦争のさなか。軍靴の響きが高まる中でも、日々を精いっぱい謳歌(おうか)した被爆前の学生の姿を伝える。(小林可奈)

 白衣姿で寝そべって空を見上げたり、落書きした黒板の前で談笑したり…。アルバムは「春の巻」から「冬の巻」まで4部構成で、四季の学生生活を捉えた約130枚を収める。キャンパスは現在の中区千田町3丁目付近。「みんな表情が生き生きしている。青春ですね」。ページを繰りながら順子さんが目を細めた。

 ただ、学生が銃を携えながら隊列を組み、行進するカットなども交じる。授業に行軍や射撃などの戦技訓練が組み込まれていた世相を映す。

 アルバム編集委員による巻末の「編集後記」は43年9月付だ。「今日目出度(めでたく)学業を終へ、戦雲漠々たる世に出(い)でんとする友よ、永く芝蘭(しらん)の友たるの交(まじわ)りあらん事を―」。戦時体制下での修業年限の短縮措置により、英男さんは同月繰り上げ卒業。教育召集を経て45年2月、陸軍独立混成第19旅団工兵中隊の要員として中国に渡った。

 45年8月6日、改称後の広島工業専門学校は爆心地から約2キロの木造校舎が倒壊した。窓ガラスや木片が飛散し、助けを求める声が方々から上がったという。

 「広島大学二十五年史」などによると、教職員や学生約100人が45年末までに死亡。広島文理科大など当時の他の前身校を合わせた犠牲は少なくとも682人に上るとされる。

 英男さんが広東省汕頭から帰還したのは、終戦の半年後。実家があった八丁堀(現中区)一帯は焼き尽くされ、両親と姉が帰らぬ人となっていた。「広島駅に降り立ち、(実家のある)福屋の方を見ると焼け野原。男ながらに泣いた」。生前、妻の政枝さん(100)にこう語ったという。

 だが順子さん自身は、戦地でのことも、肉親を失った悲しみについても父から一切聞かされなかった。アルバムを手に心を寄せるのは、終生語ることのなかった父の胸中。そして「写っている人には、戦争や原爆の犠牲者もいることでしょう」と思いを巡らせる。

 アルバムは、広島の空襲被害を警戒し、家財道具とともに八丁堀の自宅から持ち出して疎開させていたため焼けずに残ったという。広島大75年史編纂(へんさん)室の石田雅春准教授によると、広島高等工業学校の43年卒業アルバムは学内で現存が確認されていない。順子さんは近く、この一冊を同大文書館に寄贈する。

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 原爆で壊滅する前の広島の写真約1300枚をグーグルマップ上に配置し、「ヒロシマの空白」ウェブサイトで公開しています。ご覧ください。

(2024年7月8日朝刊掲載)

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