×

連載・特集

時の碑(いしぶみ) 土田ヒロミ「ヒロシマ・モニュメント」から <12> 広島電鉄千田車庫(広島市中区東千田町)

都市の未来へ延びる軌道

 広島市で路面電車などを運行する広島電鉄(広電)の本社敷地内の車庫。写真家の土田ヒロミさん(84)が撮った1979年と2019年の写真で、後景にマンションが増えたのを除けば、印象は大きく変わらない。今年で電車開業から112年、会社創立から82年となる。

 社史などによると、1912(大正元)年11月、前身の広島電気軌道が運行を開始。当初は広島駅・相生橋・御幸橋・白島をつないだ。5年後の17年末までに、広島駅・己斐・宇品・白島・横川を結ぶ路線網が開通。のちに宮島口や江波へも軌道を延ばした。

 千田車庫は開業時からの拠点。写真で右奥に位置する赤れんがの建物と左隣の建物には、自前で電力を供給する火力発電の設備が置かれていた。35(昭和10)年で発電設備は廃止され、変電所などに活用されてきた。

 運行事業者は広島瓦斯(がす)電軌を経て42年、新設会社の広電に。45年8月6日、原爆で車両をはじめ設備、人員の多くを失い、千田車庫の建屋も大破した。しかし、わずか3日後の9日に一部区間(己斐―西天満町)で運行を再開。生き残った社員が車庫内に残った車両を仮事務所にし、復旧に励んだという。本社機能は約1年間、郊外の楽々園(現佐伯区)で担った。

 60~70年代、自動車の普及などによって主要都市で路面電車が姿を消す中でも、広電は存続。広島復興のシンボルとして市民が寄せた愛着が、経営努力を後押しした。広島の都市像と切り離せない存在だ。

 79年のカットを詳しく見ると、今も現役で走る被爆電車652号(左から3両目)がある。その右の列に見える575号は神戸市電(71年廃止)、他の750~760番台の号は大阪市電(69年廃止)から中古で移籍した車両だ。

 中古車両の活用は経営努力の一環だったが、「動く電車の博物館」と呼ばれる広電の個性ともなった。整備に長年携わる車両課の迫和昭さん(66)は「われわれの腕の見せどころでもある」と胸を張る。近年、乗客ニーズの多様化に応じて超低床など新型車両の導入を重ねるが、2019年のカットにも被爆車両や移籍組の車両が交じって見える。

 広電は今、25年春の開業を目指し、JR広島駅の新ビルへ高架で乗り入れる「駅前大橋線」の整備を急ぐ。広島の都市像の未来へ向け、魅力を高めようとしている。(道面雅量)

 連載「時の碑 土田ヒロミ『ヒロシマ・モニュメント』から」は今回で終わります。

(2024年7月6日朝刊セレクト掲載)

年別アーカイブ