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ヒロシマの空白 中国新聞とプレスコード 第2部 資料から読み解く <5> 矛盾透ける労働争議監視

 連合国軍総司令部(GHQ)による日本の民主化政策の一つが労働組合の育成だった。

 占領初期の1945年12月に労働組合法が成立。47年にかけて労働関係調整法、労働基準法が成立し労働3法がそろう。団結権、団体交渉権、団体行動権の労働三権が認められた。

 GHQの後押しを受けて労組の結成が相次いだ。46年には組織率40%、組合員数約400万人に達したという。

 一方で、団体行動権に基づく激しい労働争議も頻発した。戦後の混乱による生活苦を背景に、官公庁や国鉄などの労働者が47年2月1日にゼネストを計画したが、GHQが中止を命じた。労働争議を巡る動きは検閲でも厳しくチェックされた。

3件の違反事例

 中国新聞、夕刊ひろしまに対する検閲資料を調べると、検閲の結果が分かる地元労組の記事は少ない。ただ、労働争議を取り上げた記事がプレスコード違反と指摘された事例が3件あった。

 一つは広島市西蟹屋町(現南区)にあった藤野製綿のケース。47年9月20日付の夕刊ひろしま1面に「暴行事件で労資が爆発 藤野製綿会社の紛争表面化」(原文ママ)との見出しの記事が載った。

 労組内部の感情の行き違いから暴力事件が発生。有罪判決を受けた組合長側6人が辞意を表明したが、組合内の選挙で6人は再任された。しかし、会社側が認めず「怠業状態に入り、成り行きが注目されている」とした。

 GHQは、この記事をプレスコード2項違反(公共安寧を紊(みだ)す事項の掲載)として「不可」とした。

「発行禁止」相当

 全国紙などは当時、発行する前に検閲を受けていた。中国新聞、夕刊ひろしまをはじめ、多くの地方紙は発行済み紙面をチェックされる事後検閲。事前検閲であれば「不可」は「発行禁止」に相当する。

 さらに、この紛争の解決を報じた中国新聞の記事(47年10月5日付)は2項違反で「不可」扱いだった。

 二つ目は夕刊ひろしまの記事「電産中国支部 闘争準備中」(47年10月12日付)。最低賃金引き上げなどの要求が受け入れられなければ15日から闘争に入る準備を進めている、との部分が、やはり2項違反で「不可」扱いとされた。

 三つ目は、戦時中から戦後にかけて現在の三次市大田幸町にあった双三炭鉱のケース。「三次市史」によると、双三炭鉱は、福山市の山陽染工が所有する芸備炭鉱鉱業所として43年から8年間操業された。

 「双三炭鉱 怠業に入る キッカケは物資の配給」(原文ママ)。夕刊ひろしまが47年10月15日付1面で報じた。労組が労務用物資の配給を約2倍に増やすよう要求。会社側は出炭量を増やせば報奨金を出すと回答したが、折り合わなかった。GHQは、この記事も2項違反で「不可」とした。

 戦後改革の一環で認められたはずの労働者の団体行動権。しかし実際には、労働争議について報じるとGHQはストップをかけた。GHQの占領政策の矛盾が透けて見える。

(2024年7月9日朝刊掲載)

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