緑地帯 巣山ひろみ バウムクーヘンと似島⑥
24年7月10日
広島のことをもっと知りたい。知らねばと思った。書物やビデオではなく、被爆者の生の声を聞きたかった。
薬研堀のバー・スワロウテイルで、毎月、原爆の語り部の会が開催されていた。会は若くして亡くなったバーの店主から、シンガー・ソングライターHIPPY(ヒッピー)さんに引き継がれ、開かれている。そこはネオン街のバーである。お酒の飲めない自分にとって、バーとは、敷居の高い場所であった。
夕暮れ時、そっと店のドアを開いてみる。天井からヤシの葉が垂れ下がり、南米の神を思わせる原色の絵が壁いっぱいに描かれている。隠れ家のような、ちょっと怪しげな場所…。縮こまって待っていると、少しずつ人が増え、店いっぱいに25人くらい入っただろうか。元店主の写真が壁にかけられた。お年を召した原爆の証言者がソファに腰かけ、ぽつりぽつりと、当時のことを語り始めた。じっと耳を傾ける若者の横顔を、電球の灯(あか)りが照らしていた。バーと被爆者というギャップ(私の自分勝手な)は埋まっていった。
ここには何度か通い、いろいろな証言者の方に話を聞かせていただいた。会がきっかけで浜井徳三さんにお会いできた。原爆が投下された日、疎開していた幼い浜井さん以外の家族は、中島本町に暮らしていた。現在の平和記念公園である。浜井さんは昨年、88歳で亡くなった。でも、その言葉はずっと生き続ける。本の中にも使わせていただいた。(児童文学作家=広島市)
(2024年7月10日朝刊掲載)
薬研堀のバー・スワロウテイルで、毎月、原爆の語り部の会が開催されていた。会は若くして亡くなったバーの店主から、シンガー・ソングライターHIPPY(ヒッピー)さんに引き継がれ、開かれている。そこはネオン街のバーである。お酒の飲めない自分にとって、バーとは、敷居の高い場所であった。
夕暮れ時、そっと店のドアを開いてみる。天井からヤシの葉が垂れ下がり、南米の神を思わせる原色の絵が壁いっぱいに描かれている。隠れ家のような、ちょっと怪しげな場所…。縮こまって待っていると、少しずつ人が増え、店いっぱいに25人くらい入っただろうか。元店主の写真が壁にかけられた。お年を召した原爆の証言者がソファに腰かけ、ぽつりぽつりと、当時のことを語り始めた。じっと耳を傾ける若者の横顔を、電球の灯(あか)りが照らしていた。バーと被爆者というギャップ(私の自分勝手な)は埋まっていった。
ここには何度か通い、いろいろな証言者の方に話を聞かせていただいた。会がきっかけで浜井徳三さんにお会いできた。原爆が投下された日、疎開していた幼い浜井さん以外の家族は、中島本町に暮らしていた。現在の平和記念公園である。浜井さんは昨年、88歳で亡くなった。でも、その言葉はずっと生き続ける。本の中にも使わせていただいた。(児童文学作家=広島市)
(2024年7月10日朝刊掲載)