声を届けて 世界平和巡礼60年 被爆者の旅 支えた家族の手紙
24年7月15日
試練を乗り越えてこそ お母ちやんの実力が発揮出来るのです
阿部静子さん 夫三郎さんとの30通余り保管
60年前の1964年、被爆者たちが核保有国など8カ国を巡り被爆の実情を伝えた「広島・長崎世界平和巡礼」。広島から巡礼団に加わった被爆者阿部静子さん(97)は、夫の三郎さん(92年に73歳で死去)と当時交わした30通余りの書簡を大切に保管している。2人のやりとりからは「被爆の生き証人」として異国で長旅を続けた阿部さんの労苦が垣間見えると同時に、被爆地から巡礼団を送り出し支えた人たちの熱い思いも伝わる。(森田裕美)
手紙は昨秋、阿部さん一家が暮らした自宅を家族が片付けた折、三郎さんの書斎で見つけた。友人や親族が静子さんに宛てた書簡を含め約40通が保管されており、うち34通が夫妻の往復書簡だ。文中の日付や消印などからお互い2、3日おきに書き送っていたとみられる。いずれも便箋と封筒が一体の航空書簡を使用している。
平和巡礼は当時広島に暮らしていた米国人平和活動家の故バーバラ・レイノルズさんが提唱。先立つ2年前、被爆者の故松原美代子さんら2人を伴い米ソなどを巡った手応えから、さらに大規模な行動を目指した。賛同した被爆地の市民が募金活動やメッセージを託すなどして支えた。
海を渡ったのは公募で選ばれた被爆者と通訳者ら総勢約40人。4月21日ハワイ入りし2カ月半かけて米本土、欧州、旧ソ連を巡った。
1ドルが360円、海外旅行など夢のまた夢だった時代だ。日本ではまだ各家庭に電話機も普及しておらず、手紙は重要な連絡手段だった。
<三郎> おばあちやんや子供たちに昨晩書かせました(4月21日)
静子さんが日本をたった日に早速、三郎さんが同居の母親と2男1女に書かせたという手紙は寄せ書きのよう。子どもたちが「元気で待っています」「家の事はどうか安心していて下さい」「こちらのことは心配せずにしっかり目的をはたしてください」などとあり、家族の愛情がにじむ。
静子さんは当時、広島県海田町で農業をしながら主婦として家事育児を一手に担っていた。三郎さんに宛てた静子さんの手紙には留守家庭や田畑を案ずる記述がしばしば見える。それに対し―。
<三郎>お母ちやんの手紙、本当に待ち遠しいのですが、こちらの留守中の注意が多くてさつぱりです。こちらのことは心配しないで精々(せいぜい)旅先の変ったこと、面白いこと、感じたことを書いて下さい(28日)
巡礼団が最初の1カ月半を過ごしたのは米国。原爆を投下した国で被爆体験を証言するというミッションに加え、気候も文化も異なる地への集団での旅。静子さんはハードさに疲れ、弱気になることもあったようだ。
<静子>私は子供のことばかり思って泣いています(27日)▽私はもう帰りたい(5月7日)
<三郎>早速ですが、お母ちやんの手紙に文句を云(い)います。何かと云へば子供のことを思い出して泣いているような文章は困ります(2日)▽「ドウ考エテモホームシックにカカツタ」としか考えられませんね(略)試練を乗り越えてこそお母ちやんの実力が発揮出来るのです(21日)
豊かな米国でおいしい物を食べるたび子どもたちを思い出したという静子さん。「夫の手紙に慰められ、子どもたちの元気な様子が分かると安心していた」と振り返る。
<静子>毎日すごく多忙でみんな私の手紙を待っていてくれることがわかっていてもお便り書けない事を許して下さい(4日)
米国ではレイノルズさんに協力する現地団体によって、連日集会や面会など発信の場が用意され「ホームステイ先に戻ると倒れるように寝ていて手紙は移動の機内や車中で書いた」と静子さん。手紙からは忙しい日々の中で善意の米市民と交流し、かけがえのない体験をしたことも分かる。
<静子>こちらの人々の温かいお心には本当に心の傷がいえた様な気がします。私は昨日は四回お話をしましたが大部なれて心のよゆうも持てる様になりました(8日)▽本や新聞ではいろいろ広島長崎の様子を聞いてはいるが、私共から聞いた程、身に迫って感じたことはない。よくぞ勇気を出してここまで来てくださったと会ふ人毎(ごと)にはげまされ、旅を重ねる毎に勇気付いている一同です(19日)
手紙ではリアルタイムの連絡は難しい。情報が入らず、三郎さんが心配していた様子もうかがえる。巡礼団を送り出した被爆地市民もまた、動向が気になって仕方なかったようだ。
<三郎>中国新聞にも一向にニュースらしいものはなく桑港(サンフランシスコ)到着とトルーマン元大統領との会見が小さく載った丈(12日)▽少なくとも一週間に一度位はニュースされてもよいと思う(略)阿部さん奥さんはもう帰ったのですかと皆に毎日のように聞かれます。七月までだと云ったら今どこに居るのですかと、以上のような有様(ありさま)ですよ(21日)
三郎さん自身、静子さんの海外での活躍を、広く知ってほしい思いがあったに違いない。
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友人からの激励の手紙も残る。自らの背中のケロイドをさらして原爆を告発し「原爆一号」と呼ばれた故吉川清さんからニューヨークに届いた励ましの手紙も。静子さんはかねて吉川さん夫妻を頼り、家族ぐるみの付き合いをしていた。吉川さんは遊びにやって来た静子さんの長男次男の様子をつづった上で「風土の相異や食物や言葉が通じないことからくるいろいろな御苦心も随分あることと思いますが、お体に充分ご注意してくれぐれもお元気で」と記す。
17日付から連載「声を届けて~世界平和巡礼60年」を始めます。
(2024年7月15日朝刊掲載)