×

連載・特集

声を届けて 世界平和巡礼60年 <上> 1964

苦難の旅路 保有国で訴え

 「いわば世界平和のためのタネまき。今後はその成長と収穫をめざし、地についた運動を繰り広げなければ」。1964年7月6日、広島市平和記念館(現在の原爆資料館東館の場所)であった「広島・長崎世界平和巡礼団」の帰国報告会で、団長を務めた被爆者松本卓夫(86年死去)が語った言葉を7日付本紙が伝える。核保有国などを75日かけて歴訪した一行はこの前日、原点の地に帰ってきた。

米ソの冷戦下

 地に着いた運動―。64年がどんな時代だったかを思う時、この言葉は重く響く。巡礼団が核を持って脅し合う米ソなどを訪ねたのは、厳しい冷戦下。南北ベトナムの対立は米ソの代理戦争とも言われ、8月のトンキン湾事件で米軍はベトナム戦争に全面介入する。日本国内では冷戦を背景に原水爆禁止運動が政党色を強め、63年の世界大会で分裂が決定的に。大衆から盛り上がった反核平和運動は混迷していた。

 そんな中、広島の米国人平和活動家バーバラ・レイノルズ(90年死去)が提唱したのが平和巡礼だった。「本質上、超党派、超宗派、超イデオロギーで、広く深い人間愛という人類共通の立場から打ち出されなければなりません」。レイノルズに賛同し、被爆地でメンバー選考や資金集めに動いた実行委員会(委員長・原田東岷)が趣意書に記す。

 選ばれたのは農家の主婦や教師、医師、学生、保育士などさまざまな属性を持つ市井の被爆者たち。趣意書は「被爆の実相は、やはり、その体験や現場証人のなまな話を聞かなければ現実が遠すぎて実感がわかない」ともつづる。巡礼は、困難な時代にあって原爆被害者がじかに廃絶を働きかける挑戦だった。

 巡礼団は4月21日にハワイ入り、3班に分かれて米国本土を巡った後、欧州、旧ソ連へ。手分けしながら8カ国150都市でヒロシマを伝えた。

 だがとりわけ原爆投下国米国では「生き証人」の訴えも簡単には響かなかったようだ。「原爆が戦争終結を早め多くの米兵らの命を救った」とする言説も共産主義への警戒も強かった。

 巡礼団の一人だった本紙記者満井晟(あきら)が、ハワイでラジオ出演した様子を帰国後に記事で振り返っている。リスナーから届く質問は、巡礼団を共産主義者だと見たり真珠湾攻撃を引き合いに原爆投下を正当化したりする内容で「原水爆禁止や平和を唱えるのは共産主義者だ。共産主義は悪だという考え方が露骨に押し出されて」いたという。

発信の場用意

 現地の団体や心ある人々に寝食を支えられ、あまたの発信の場も用意された一方、妨害にも遭った。旧東ドイツやソ連を訪ねれば「共産主義国に利用されている」と非難もされた。活動費は寄付で賄う計画だったが、資金難にも陥った。

 「『巡礼』の名の通り苦難に満ちたものだったと分かる」。平和巡礼を機に翌65年、レイノルズらが広島に創設したワールド・フレンドシップ・センター(WFC)の理事長立花志瑞雄は話す。

 WFCは今、数百点を超える関連資料の整理を続ける。まだ途上だが、資料からは60年前の空気や壮大な旅の構想、送り出した被爆地の熱意が見えるという。4月には市内でパネル展を開いて一部を公開し、来場者と「市民が行動する意味」を共有した。立花は「歴史に学び、考え、伝える。こうした行為が平和につながる」と信じる。=文中敬称略

    ◇

 広島市特別名誉市民でもある故バーバラ・レイノルズさんが率いた「広島・長崎世界平和巡礼」からことしで60年。困難な時代に巡礼団は何を成し遂げ、何を残したのか。記録や証言をたどり、いまを照らす。(森田裕美)

(2024年7月17日朝刊掲載)

年別アーカイブ