声を届けて 世界平和巡礼60年 <中> 勇気を育む
24年7月18日
生き証人としての使命感
焼け縮んだ手や顔の傷は被爆から歳月を経ても元には戻らない。「ふた目と見られぬ姿になって泣き暮らしていました」1964年、広島・長崎世界平和巡礼に加わった阿部静子(97)=広島市南区=は遠くを見つめ、言葉を継ぐ。
「今顔を上げて話をできるのはあの時得た勇気のおかげ。私のような者でも大切な話ができると知りました。だって『生き証人』ですから」。当時の旅日記を手に力を込める。高齢者施設で暮らす今も、市民団体やメディア、若者たちに請われ、被爆体験やその後の歩みを語っている。
あの日、集落の勤労奉仕に動員され爆心地から約1・5キロで建物疎開作業中に被爆。屋外で強烈な熱線を浴びた。顔は焼けただれ右腕は爪の先まで皮がむけた。一命は取り留めたもののやけどは盛り上がり真っ赤に。
当時は結婚間もない18歳。同居の義母に離婚を迫られた。周囲に奇異の目で見られ近所の子どもに「赤鬼」と言われた。離婚も覚悟したが、年の暮れに復員した夫の三郎(92年死去)は変わり果てた妻の姿に顔色一つ変えず優しく寄り添った。
夫に支えられ
ある夏、原爆ドームそばのバラックで「原爆被害者は声を掛けて」と書かれた看板を見かける。「原爆一号」と呼ばれた吉川清(86年死去)だった。吉川ら初期の被爆者運動に尽くした面々と親交を深めた。米国人平和活動家バーバラ・レイノルズ(90年死去)が提唱した巡礼に加わったのも彼らの勧めだった。
初めての海外。2カ月半にわたり核保有国などで原爆被害を訴える重責だ。農業をしながら家事育児を担う主婦が家を空けるのは一大事だった。「隠れるように生きていた自分には無理だと思いましたが、夫は名誉ある役目だと励ましてくれました」
海を渡った妻を三郎は手紙で支え、米邦字紙に寄稿までしている。原爆被害者は見せ物でも哀れみを請いに行くのでもないとし、妻を送り出したのは「廣島(ひろしま)の被爆者の願いを、一人でも多くの國々(くにぐに)の方々に知っていただくため」と訴えた。
そんな被爆地からの声援を背に通訳含め総勢40人の巡礼団はホームステイしながら各地を奔走。阿部は「(原爆投下は)すまなかった、のひと言もなくむなしかった」と振り返るが、米国では原爆投下時の大統領トルーマンと面会した。国連事務総長らにも会った。学校や教会で証言し、枯渇した巡礼資金を得るためニューヨークのカーネギーホールで集会を開いてカンパを集めもした。
後の人生決定
原爆投下を肯定する声が圧倒的な国で平和を望む人々と触れ、「米国憎し」の思いは薄らいだ。「この人たちも含め、被害に遭わないようにしなくては」。10年余り前まで続けた修学旅行生らへの証言活動につながる。
被爆教師として平和教育に尽くした森下弘(93)=佐伯区=もまた、巡礼がその後を決定付けたと語る。「鬱屈(うっくつ)していた被爆者が世界に出て話をし、それを聞いて原爆はいけないと感じ始める人がいた。予想もできなかった大きなことが私にもできると思えた」
森下はレイノルズらが巡礼後に創設したワールド・フレンドシップ・センターの名誉理事長の肩書も持つ。関連資料を整理しながら、戦火が絶えず核使用の懸念さえある今、あらためてその意義を思う。「今は冷戦期より厳しくなりつつある。だからこそ当時を思い起こし平和への一歩を推し進める力にしなくては」=文中敬称略 (森田裕美)
(2024年7月18日朝刊掲載)